旭川東高等学校同窓会 札幌突兀会

会報

令和7年発行 会報第42号

会報第42号 表紙 会報第42号 会報第42号 式次第 会報第42号 あいさつ 会報第42号 あいさつ 会報第42号 あいさつ 会報第42号 あいさつ 会報第42号 寄稿 会報第42号 寄稿 会報第42号 寄稿 会報第42号 寄稿 会報第42号 事業報告 会報第42号 事業報告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告 会報第42号 広告
<第42号の内容>

表紙・式次第

ご 挨 拶
 各同窓会会長・母校校長先生

<札幌突兀会から>
 寄稿記事

・札幌突兀会この一年(事業報告・会計)

・札幌突兀会からのお知らせ(収支予算・行事予定 ほか)

・広告ページ

令和6年発行 会報第41号

会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号 会報第41号
<第41号の内容>

ご 挨 拶
 札幌突兀会 会長 大村 東生(東高29期)

歴史と伝統の礎の上に
 旭川東高等学校 同窓会 会長 荒井 保明(東高29期)

ごあいさつ ~日本および国際社会の課題を解決する人材育成に向けて~
 旭川東高等学校 校長 郡司 慶次

東京同窓会の今とこれから
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 山川 智(東高29期)

<札幌突兀会から>

「Glorious Discontent !」のすすめ
 北海道電力㈱ 名誉顧問/北海道経済連合会 名誉会長 真弓 明彦(東高23期)

やってみる伝えてみる続けてみる
 大澤 乃輔(東高41期)

気になるわが母校
 髙倉 弘光(東高34期)

変わるもの、変わらないもの
 STVグループ 札幌映像プロダクション 明石 英一郎(東高29期)

お見舞いを兼ねてプチ同窓会
 山本 美知郎(東高41期)

・札幌突兀会この一年(事業報告・会計)

・札幌突兀会からのお知らせ(収支予算・行事予定 ほか)

令和5年発行 会報第40号

会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号 会報第40号
<第40号の内容>

久しぶりの札幌突兀会
 札幌突兀会 会長 大村 東生(東高29期)

活動再開おめでとうございます
 旭川東高等学校 同窓会 会長 荒井 保明(東高29期)

ごあいさつ~これからの社会を支える人材育成のために~
 旭川東高等学校 校長 郡司 慶次

コロナ下での再開の難しさ
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木 宏明(東高20期)

<札幌突兀会から>

当番期の思い出
 中島 洋子(東高22期)

札幌突兀会は、思いやりの会なのだ
 札幌突兀会副会長 中川 均(東高25期)

君や我ここにつどいて
 相木 孝仁(東高40期)

応援には人生を変える力がある
 朝妻 久実(東高52期)

旭川、札幌、東京をつなぐ縁
 渡辺 恵士朗(東高53期)

・札幌突兀会この1年

・札幌突兀会からのお知らせ

令和元年発行 会報第39号

会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号 会報第39号
<第39号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
令和の世にも更なる発展を
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

「昭和」から「平成」そして「令和」へ
 旭川東高等学校 同窓会 会長 荒井  保明(東高29期)

ごあいさつ~改元の節目
 旭川東高等学校 校長 小林 為五郎

新しい時代の同窓会
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

札幌突兀会から

同窓会ご縁に感謝
松並  順子(東高18期)

東高28期近況報告 卒業40周年の修学旅行
村松  真澄(東高28期)

「ラジオ・デイズ」
井川 美佳子(東高33期)

「十五の春」に関する一考察
佐藤  導謙(東高36期)

旭川発 全国ドラマ
加藤  正俊(東高38期)

札幌突兀会この1年[事業報告含む]

平成30年度 会計報告・令和元年度役員会収支予算案

平成30年発行 会報第38号

会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号 会報第38号
<第38号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
115年変わらないもの
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

小泉秀雄先生の功績から100年を経て
 旭川東高等学校 同窓会 会長 荒井  保明(東高29期)

ごあいさつ
 旭川東高等学校 校長 岡田   聡

これからの同窓会
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

札幌突兀会から

北大医学部創立100周年と「旭東会」
 吉岡  充弘(東高27期)

札幌突兀会女子会とは
 菅原  明子(東高28期)

将棋のこと
 入江  一孝(東高18期)

我が良き友よ
 石川 佐和子(東高27期)

コンサドーレで、シマレ、ガンバレ!
 熱海   寿(東高40期)

母校の思い出 サッカーの話
 山本  和幹(東高55期)

札幌突兀会のこの1年[事業報告含む](1ページ)

平成29年度 会計報告・平成30年度役員会収支予算案

お悔やみ

第58回 祝辞 37期東京同窓会 (前年度当番期36期 祝辞 含む)

編集後記



平成29年発行 会報第37号

会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号 会報第37号
<第37号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
日本一の同窓会を目指して
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

2030年の札幌と旭川の未来
 旭川東高等学校 同窓会 会長 荒井  保明(東高29期)

ごあいさつ
 旭川東高等学校 校長 岡田   聡

変わりつつある同窓会のあり方
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

札幌突兀会から

昭和36年高校野球
 平泉   剛(東高12期)
夏の北北海道大会の思い出

自転車通勤は一石四鳥!
 脇坂  明美(東高17期)

写真との出会いと思い出
 山内 さやか(東高28期)

当番期の思い出
 札幌テレビアナウンサー 明石 英一郎(東高29期)

心に残るエピソード
 道下  大樹(東高44期)

アクティブに
 南  知里(東高52期)

確かに繋がれた「襷」
 山下  隆之(東高35期)

あまり記憶のない高校時代と現在
 信岡   純(東高37期)

札幌突兀会のこの1年

もうひとつの一期一会 ~「米々亭」よ永遠に~

平成28年度 事業報告・会計報告・平成29年度役員会収支予算(案)

お悔やみ

平成29年度 東高同窓会-むすび-
(前年度当番期35期・翌年度当番期37期 祝辞 含む)

編集後記
広部  哲也(東高36期)

平成28年発行 会報第36号

会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号 会報第36号
<第36号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
シマレガンバレを「たすき(襷)」に込めて
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

未来への「襷」
 旭川東高等学校 同窓会 会長 大廣  泰久(東高21期)

東高生の未来を創る
 旭川東高等学校 校長 山根  治彦

世代間で共有できるもの
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

「生徒と当番期以降」
 糸田  敏光(東高9期)

「楽しい思い出ばかり」
 永井  和規(東高23期)

「東高26期の恒例行事」
 山際  裕信(東高26期)

母校と同窓会の歴史考察
 畠山  隆史(東高28期)

学びの日々を過ごしながら
 片山 奈緒美(東高35期)

念願の「甲子園出場」を目指して
 本間  哲郎(東高37期)

「襷を受けて」
 風間  真悟(東高48期)

「お待ちしております。」
 松本  勇樹(東高50期)

『当番期』という襷
 中本  勝三(東高34期)

「"青春の味" GRAFFITI in 1986」
 満保  憲一(東高36期)

札幌突兀会この1年

旭東トピックス この1年

平成27年度 事業報告・会計報告

お悔やみ

平成28年度 東高同窓会-むすび-
(前年度当番期34期・翌年度当番期36期 祝辞 含む)

平成27年発行 会報第35号

会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号 会報第35号
<第35号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
心に残る恩師の言葉
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

札幌突兀会「ご挨拶」
 旭川東高等学校 校長 山根  治彦

「突んがったファーストペンギン」
 旭川東高等学校 同窓会 会長 大廣  泰久(東高21期)

ホームページで見えてきたもの
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

「東高7期会」
 青山  雄一(東高7期)

「あの時代(とき)を忘れない」
 小市  正光(東高15期)

還暦に同期を送って
 佐藤  敦子(東高23期)

あの頃、所謂『花の20期』
 南田  英俊(東高20期)

「ある日の百科事典」
 神保  秀一(東高27期)

「あの時代(とき)を忘れない」
 吉村   匠(東高30期)

高校時代の思い出
 平野  道雄(東高35期)

当番期への思い
 田村  正志(東高33期)

札幌突兀会この1年

もうひとつの一期一会 ~「米々亭」よ永遠に~

平成26年度 事業報告・会計報告

お悔やみ

当番期 挨拶

編集後記(にかえて)
北村  英則(東高34期)

平成26年発行 会報第34号

会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号 会報第34号
<第34号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
母校にもオリンピック選手が
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

思いで「」そして「創造の世代」
 旭川東高等学校第9代同窓会 会長 大廣  泰久(東高21期)

『未見の我』の発見を!
 旭川東高等学校 校長 山形  恒則

変わらないものの大切さ
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

出逢い...兄への想い
 定木  紳(東高32期)

卒業アルバム活用法
 北村  英則(東高34期)

特別寄稿

突兀七千有余尺~明治40年大雪山探検
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

思いで~あのころ~

第二回目の修学旅行
 木幡  敏也(東高9期)

帰って来た青春
 三輪  修彪(東高12期)

50年後のできごと
 岩本  勝彦(東高13期)

卒業45周年同期会
 脇坂  明美(東高17期)

「思いで~あのころ~」
 松並  順子(東高18期)

男子クラス、いつまでも…
 佐藤  敦子(東高23期)

「札幌突兀会名簿-この御し難きもの」
 稗田  潤(東高26期)

高校入学…夏休みの思い出
 畠山  隆史(東高28期)

四面楚歌で過ごした3年間
 盛永  喜之(東高33期)

35期の近況
 山下  隆之(東高35期)

お世話になっております、今も
 藤田  和宏(東高33期)

北海道旭川東高校野球部の現況
 野球部監督 小倉  貴彰(東高43期)

33期特別寄稿

テーラーメード医療の夜明け
 高橋  將人(東高33期)

札幌突兀会この1年

平成25年度 事業報告・会計報告

お悔やみ

当番期 挨拶

編集後記 思い出~あのころ~
 名取  宏明(東高33期)



平成25年発行 会報第33号

会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号 会報第33号
<第33号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
あなたの恩師は誰ですか
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

就任のご挨拶と創立110周年
 旭川東高等学校第9代同窓会 会長 大廣  泰久(東高21期)

「新たな歴史と伝統を!」
 旭川東高等学校 校長 山形  恒則

世代間の交流の場としての同窓会
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

人生は「高校時代」に決まる !?
 佐藤  司(東高31期)

友~回帰
 片岡  崇(東高33期)

特別寄稿

<ファミリーヒストリー>

伝説のピッチャー印藤尚義氏 (旭中20期)
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

札幌突兀会のこの1年

平成24年度 事業報告・会計報告

お悔やみ

当番期 挨拶

編集後記に代えて 出逢い。。。古くて新しい~友へ~
 当番長 熊谷  斉(東高32期)



平成24年発行 会報第32号

会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号 会報第32号
<第32号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
一日も早い震災復興を
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

同窓会総会日の変更等
 旭川東高等学校第8代同窓会 会長 松野  和彦(東高16期)

常に、光輝く旭東高であれ!
 旭川東高等学校 校長 森   徳男

若い同窓生を応援しよう
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

歌謡界絶頂のまっただ中に
 吉村 匠(東高30期)

シマレガンバレとスパイスカレー
 沼澤 理恵(東高32期)

札幌突兀会のこの1年

特別寄稿

「坂の上の雲」雑感
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

仲間と紡ぐ
 旭川東高等学校 教諭 (音楽部顧問) 水野 雅文(東高31期)

平成23年度 事業報告・会計報告

お悔やみ

当番期 挨拶

編集後記に代えて 「愛~根ざせ北の大地に」
 東高第31期当番長 佐藤 司



平成23年発行 会報第31号

会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号 会報第31号
<第31号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
旭川、東京そして札幌 次の50年をめざして
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

札幌突兀会の皆様へ
 旭川東高等学校第8代同窓会 会長 松野  和彦(東高16期)

可能性への挑戦を
 旭川東高等学校 校長 森   徳男

シマレガンバレの精神で苦境の克服を
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 高木  宏明(東高20期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌

旭川東高等学校 逍遥歌

札幌突兀会から

続「黄金時代」を実感!
 川瀬 雅之(東高29期)

時を超え、ネットも超えて、リアルな交流へ
 芳江 妙子(東高31期)

旭川東高等学校30期 旭川・札幌・東京同期会一同

札幌突兀会のこの1年

平成22年度事業報告

平成22年度会計報告

お悔やみ

編集後記に代えて 集え突兀人、やるべきことは多い。
 東高第30期当番長  吉村 匠



平成22年発行 会報第30号

会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号 会報第30号
<第30号の内容>

(注:もし画面に黒い帯が表示された場合は、一旦戻って再度クリックして下さい。)
結成50周年を迎えて
 札幌突兀会 会長 田村  康史(東高18期)

札幌突兀会50周年を祝って
 旭川東高等学校第8代同窓会 会長 松野  和彦(東高16期)

縦糸と横糸
 旭川東高等学校 東京同窓会 会長 安井  規雄(東高17期)

文武両道・自主自立の校風ここに
 旭川東高等学校 校長 小島  修二

初代~第10代会長

「上・中・下・愚」
 札幌突兀会第11代会長(平成5年~10年) 鉄川   昭(東高5期)

札幌突兀(こつ)会との携わり
 札幌突兀会第12代会長(平成11年~12年) 小柳   崇(東高7期)

50年間を思い一筆!!
 札幌突兀会第13代会長(平成13年~20年) 木幡  敏也(東高9期)

《札幌突兀会 50年のあゆみ》 ~飲水思源=半世紀の足跡をたどる
 横内  隆志(東高23期)

《札幌突兀会 50年のあゆみ (年表)》

同期会通信・卒業50周年
卒業50周年と記念の同期会を終えて
 上ヶ嶋 桂一(東高9期)

同期会通信・卒業40周年
40年ぶりの再会に感激
 森崎   勉(東高19期)

各期短信
福島県立喜多方高校校歌の「突兀七千有余尺」について
 西村 一男 (旭中40・41期)

”東八会” 札幌支部の現況
 金子  守治(東高8期)

番屋の湯で一泊の同期会
 上原  士郎(東高11期)

仲間と過ごす楽しい老後!
 桃井   勲(東高12期)

「KY」について思うこと
 宮下  克則(東高18期)

桃源郷の同窓会
 佐藤  敦子(東高23期)

こんな筈では無かったのに…。
 秋田谷 憲彦(東高25期)

私服の話
 伊藤  一彦(東高26期)

旭川東高の思い出
 畠山  隆史(東高28期)

157勝85敗1分
 佐藤   司(東高31期)

旭川中学校 校歌

旭川東高等学校 校歌

旭川東高 応援歌、旭川東高等学校 逍遥歌

平成21年度事業報告

平成21年度会計報告

編集後記に代えて 「黄金時代」を実感! 50周年記念ありがとうございます。
 「第50回札幌突兀会」 準備会  東高第29期当番長  川瀬 雅之

お悔やみ



平成21年発行 会報第29号

<第29号の内容>

今一度、感動をありがとう!!
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
第49回札幌突こつ会の開催にあたり、旭川本部、東京同窓会、現校長先生及び多くの恩師の先生方をご来賓としてお迎えできることは、我々同窓生として大きな喜びであります。
当会もその年の当番期、担当役員方々の平素の呼びかけ運動と努力によって、年々若い層の同窓生が出席されることは本当に喜ばしいことと心から感謝しております。

さて、昨今の世の中は不況風が台風のように吹きまくり、金融危機、倒産、失業、家庭不和、その上に政治不信と無策対策と暗い闇の中にあるのが現状です。
最も顕著な現象は、輸出の急激な減少に対応した史上経験したことのない製造業の大減産の動きである。
このような日本経済の現状について「外需に過度に依存したつけが回ってきた」と批判が聞かれる。それも全く正しい意見と思われるが、「好きこのんで外需に傾斜」した訳でもないし、「内需振興が必要」と言っただけで内需が盛り上がる訳でもない。
しかし現在の政治面の動きを見ると、財政資金を何処にどの程度注ぎ込むのか、早期に国民的合意を得るのは難しそうである。とすれば、日本経済の回復には引き続き外需の回復が必要になる。
欧米先進国では、なお金融不安が根強く残り、実体経済の回復には時間を要すると見られるので、当面は新興国向けの輸出の回復に期待することになりそうである。

さて、暗く寂しい話しばかりではなく、ここで明るい話題に変わろうではないか!!
野球の第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では日本が連覇を達成した。短期決戦は番狂わせが起きても不思議ではない。しかも、連覇達成への重圧がのしかかる中での戦いであった。
決勝戦の相手は、予選から通算二勝二敗の韓国だった。記憶にも新しいが、昨年の北京五輪覇者を延長で振り切ったのだ。
「気力」と「ねばり」で頑張った『侍ジャパン』選手達の健闘が強く印象に残った。
世界一を達成した瞬間、日本国中が感動と祝福に沸いたに違いない。と同時に、大きな感動をも貰った。今の先行き不透明の暗い日本に勇気とカを与えてくれたと言っても過言ではない。北海道日本ハムファイターズの主力選手であるダルビッシュ、稲葉選手、また、2年前までは苫小牧の高校生だった田中投手達の活躍には道内のファンも感動したはずだ。
私は一番感動したのは、イチロー選手でした。当初はなかなか打てない。ファンの期待は高い。その状況の中で最後のここ一番には大きな仕事をして優勝に導いてくれた。
平素は外国で活躍しているが、「いざ鎌倉」には一目散に駆けつけて、我が日本のために身を粉にして働く姿こそ本当の『日本の侍』と感じました。本当に感動をありがとうございました。

最後になりますが、突こつ会の会長職としての会報記事も多分、今回で最後と思います。
長きに亘り、私を支えてくれた同窓の諸先輩の方々、役員諸氏の方々、また多くの同窓生の皆様に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
札幌突こつ会に寄せて
旭川東高等学校第8代同窓会会長 松野 和彦 (東高16期)
仲間と気持ち
旭川東高等学校東京同窓会会長 安井 規雄 (東高17期)
近況報告
北海道旭川東高等学校校長 小島 修二
子どもたちの中で
社会福祉法人愛敬園 手稲東保育園園長 野田 誠 (東高 6期)
同窓生って なあに?
塩谷 日出子(東高11期)
今から50年前、現在とは違う新校舎一階の一角「2年7組」で、当時巷で言われるところの“とん高のイモ”なる女生徒のさいたる高校生活を送っていました。
新築から数年の校舎にもかかわらず、冬ともなると大廊下にはスガモリによる大きなつららが下がり、休み時間には隣席の友人と背中をくっつけて“暖”をとることも。前庭の添え木された木々の影、秋口、決まって6時間目頃に窓外を行き交う焼き芋屋さんの音。個性的な先生方の授業風景。目に耳に焼き付けているのは教科の内容などでは全く無し!!

あの頃、農家の娘の高枚進学率は今では考えられない位に低く、学べる有り難さ、は充分に認識していたにもかかわらず、あの年代のなんと「欲」の無いことか。
後年、旅をしても、映画を見ても、もっと勉強しておけば・・・まして仕事となると。後悔先に立たずとは、また先人も同じと言う事でしょうか。
けれど、40数年前に廃線になった郊外電車東川線での通学は多感な時期の私に多くのものをもたらしたように思われる。読書しつつの歩行。大雪連峰に向かって30分ほどの道のりを、何かしら考えつつ、友人とのおしゃべりも。
通学時間が長いことのメリットは実に多い。今ではこんな長閑な状況はどこにも無いけれど。

さて我が11期は5年ごとに「同期会」を開催。その間を縫って、札幌近郊を中心に小規模の同期会、ミニミニ同期会など。また他の期には無いと思われる集まりに「レディス会」と称し、女性限定の同期会が旭川近郊在住者を中心に30数年も前から毎年のように開かれている。
当時はどの学年も女生徒が全体の30%弱と言うこともあり、もしかして結束が固いのかも知れません。私も何度か参加しましたが、“女は女同士”の楽しみもまた捨てがたいのでしょうか。
また、このところ毎日が日曜日の面々も増え、旭川での忘年会も殊の外盛況との事。

いずれの会も、回を重ねるごとに、参加者に変化が見られ、卒業以来初めてと言う人も、数分経つと昨日も隣に居たのでは?と言った有様。学生時代には話もしたことが無いはずなのに、何故か心おきない身内の様な存在に。これは同期生ばかりではなく、同窓生にも言えるのでは?
いま、同窓会が見直されているのだとか。先日テレビ番組での事。東京新橋の居酒屋のママの発案で、日本各地の高校別の言うなれば「交換ノート」を用意したところ、ノートを通しての交流が大いに盛り上がり、いまでは800校以上に。1,000冊を目指したいとのこと。
全国にどの位の数の高校が存在するのかは知らない。けれど、先行きの不安な昨今、心許しての交流が持てる同窓生の存在が人生の終盤を迎えつつある人も、これからもっと社会に羽ばたこうとする世代にも受け入れられていることだけは確かなこと。
わずか3年、それも異なる時間帯を同じ学舎で過ごしたことの意味を不思議に感じているのは私だけだろうか。

ともあれ、今後も連綿と続くであろう「同窓会」とりわけ“札幌突こつ会”は不滅なのかも知れない。
企業スポーツと八木祐四郎(旭中40・41)JOC元会長
稗田 潤(東高26期)
古い話ですが、この冬はノルディックスキー世界選手権複合団体金メダルというニュースに快哉を叫びました。そして2月28日の日本経済新聞「春秋」欄で八木祐四郎先輩(旭中40期、元東京同窓会会長)のことが次のように紹介されていました。

「快挙のメンバーにビルメンテナンス業の『東京美装』所属が二人いる。日大スキー部の監督だった八木祐四郎さんがビルの窓ふきや清掃は『貧乏スキー部員のアルバイトになる』と1957年に立ち上げた会社だ。94年に上場を果たし、日本オリンピック委員会の会長に就任したが志半ばで2001年に急死した。
▼会社の仕事はビルの地下での空調設備の点検や清掃などの地味な作業が中心だという。八木さんは『会社の仲間に金メダリストがいることで社員が夢や誇りをもてるようになる。これが社内でいい雰囲気をつくっている』と生前語っていた。企業スポーツの衰退と逆風の経営環境でも創業の情熱を持ち続けてほしい」

高い志を抱いて企業経営とスポーツ界の発展に尽力された八木先輩の後輩であることを誇りに思います。
高村光太郎は「冬の詩」で「冬は汝の味方だ」と言い「汗水を流して、大地に仕事をし、家を建て、機械を動かす天晴(あっぱれ)の勇者よ/汝のカをふりしぼれ、汝の仕事を信仰しろ、汝の暴威をたけらせろ/泣く時は泣け、怒る時は怒れ、わめく時はわめけ/やけになるな、小理屈をいふな/冬のやうにびしびしとやれ」とうたいあげています。
来年、骨身を惜しまず「魂と肉」を鍛えた選手が八木先輩の夢をバンクーバーで再び叶えることを願うとともに、私たちも厳しい「経済の冬」を克服できるよう努力したいと思います。
駆け出したあの日
北海道大学理学部教授 神保 秀一 (東高27期)
平成20年度事業報告・平成20年度会計報告
旭川中学校校歌、旭川東高等学校校歌、旭川東高応援歌
『時を駆ける』アルバムから見える東高の歴史
旭川東高等学校敷地の一角にある「東髙五本松資料館」。
そこには東高の歴史を物語る貴重な資料が数多く保管されています。過去の卒業アルバムもその一つです。
昭和20年から24年に掛けては戦争の為発行されておりませんが、その数70冊余り。
時代は巡り、アルバムがセピア色に移ろうとも、
そこにある若者の溌刺とした様子や志高く凛とした姿、そしてその教え子達を育み温かく見つめる恩師の眼差しは、
いつの時代も変わりはありません。
卒業アルバムは、時代を駆け抜けて来た東高の歴史そのものなのです。

昭和19年発行のアルバムは「2604」と皇紀表示になっています。
5年のブランクを経て、敗戦後昭和25年に発行されたアルバムは「1950」と西暦表示。
社会の仕組みが大きく変化したことが、アルバムの表紙からも窺えます。
(皇紀:日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当たる)を元年として1872年(明治5年)に定めたもの。)

昭和19年 太平洋戦争まっただ中
激戦が続く暗い時代の中にも
空に賭ける青春があった
「同窓会の意義について考えてみる」
畠山 隆史 (東高28期)
お悔やみ


平成20年発行 会報第28号

<第28号の内容>

1. あいさつ
今こそ「シマレガンバレ」の精神を!!
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
第48回札幌突こつ会の開催にあたり、旭川本部、東京同窓会、現校長及び多くの恩師の先生方をご来賓としてお迎え出来ることは大きな喜びであります。当会もその年の当番期、又担当役員方々の努力と呼びかけ活動により、年々若い層の同窓生を迎えております事は喜ばしいことと心から感謝しております。
さて、北海道はいまだに不況のど真ん中から抜けきれない状況にあります。不況のたびにその責任は政府にあるとして「なんとか手を打って」と景気対策をせかす「国依存型」「他人依存型」であるように思われる。その結果、政府も巨額な金をつぎ込んで「公共投資中心の景気対策」を実施してきた。そのため、国全体としても国際比較でも目立つ巨額の財政赤字をため込んでしまった。いったい子孫に借金を押しつけて死ぬつもりなのか。日本の経営者は、自省し、もっと自立精神を持たなければならない。
この際あえて一言だけいわせてもらうと、時に応じて経済団体及び経営者団体は政府に苦言をする慣習が有るように思われる。たとえば「政府は行革を実施し、局の数を整理して、局長は半分に減らせ」「各省庁の関連団体を整理し、職員の数を縮小せよ」と注文をつける。しかし、ここで批判注文している側にも改革する点があるのではないか。経済団体も創設当時は副会長は一人か二人だったが、現代は数十名と多くなっている。副会長になればそれなりの出費が必要だろうが、その金は結局消費者にふりかえってくる。日本経済が悪くなったことに対して、政府を責めずに個々の経営者が努力して自立をすべきである。責任を他に持っていくことをやめるべきで、この点だけは経済人も心にとめておいて、客観的事実を自分で確かめてから発言なり行動なりを行うべきである。
しばしば引用されるが、アメリカ大統領のケネディが就任したときの有名なフレーズがある。国民に対してこう述べている。「国民は国家に対して何をしてもらうかでなく、国家に何が出来るかを考えるべきである」と述べたのである。又ドイツの経営者は、経済が悪いとき、それを政府の責任とは言わないといわれている。自分たちの問題だとする自立自助精神が徹底しているからである。
しかし、現在の日本では「国民は国に何をしてもらうかだけを考える、国に対して何が出来るかを考えない」という心境である。日本の経済人の特殊性がそこに出ているのである。日本国内の中でも北海道の不況が長引くのは、この「他人依存型」「国依存型」のせいであると思われる。すべてにわたって、自主、自立精神が不足しているのだ。
かつて我々が青春時代に我が母校で学んだ「シマレガンバレ」の精神はまさしく、この自主、自立、自助精神を教えていたのだといつも信じて来ました。「シマレガンバレ」素晴らしくまた多くの意義のある校訓ではないですか。いまの現実と向き合って、今一度「シマレガンバレ」の校訓を思い出して、我が同窓生諸氏の今後のご活躍を期待しております。
最後になりましたが、本年の東27期の当番期の皆様には、この会の為に一年前から昼夜を問わずに試行錯誤と努力され、このような素晴らしい会にして頂いた事に心から感謝申し上げます。ご苦労さまでした。
医進類型指定校
旭川東高等学校第8代同窓会会長 松野 和彦(東高16期)
木幡会長を始めとする役員ご一同、又、旭東27期生の皆さんのお手伝いにより、第48回札幌突兀会総会が、本年も無事、盛大に開催されますことを、心より感謝申し上げ、お祝い申し上げます。
さて、本年2月8日付『道新』に「医学部受験支援9校決定」の記事が大見出しで載りました。そして、旭川東が指定校となっていたことをご記憶の方は、多数いらっしゃるかと思います。このことに就きましても、札幌突兀会の皆様には感謝申し上げなければなりません。
私は、昨年のこの会報でお願い致しました、知事、教育長宛の陳情書~「進学校としての体制維持」のための現行の間口維持、又は、進学特認校としての教諭増員~への、皆様の署名ご協力があつたればこその結果だと考えております。
道教委のお話では、受験指導強化のための「医進類型指定校」制度は、今回の陳情があったから制度化した訳ではないとの事でした。~医学教育の制度改定による近年の医師不足への対策で、道教委としていろいろと検討した結果、我々の希望する体制を採用して頂けた?~経緯は別として、陳情が現実化したことには間違いありません。周年事業だけではなく、この様な形で母校に協力出来たことは、同窓会としてこれに勝る喜びはありません。
後日談ですが、この事業は国の補助事業として採用され、経費は全て国に賄って頂いていると学校側からお聞きしております。
最後に、再度、札幌突兀会のご協力に感謝申し上げ、ご挨拶と致します。
難民の博士号取得
東京同窓会会長 安井 規雄 (東高17期)
ソマリア難民の1人であるスグレ・アザカル・ハッサン氏は40歳。高校卒業の89年、戦乱の祖国ソマリアを逃れ、バングラディッシュの大学にて農学と獣医学を学び、修士号を取ったが、内戦の激化のため祖国に戻れなくなった。
ハッサン氏は、研究を続けるため99年に来日し、難民支援の基金により、北海道江別市の酪農学園大学大学院に入学し、在日の難民では初めて博士号を取得した。しかし、祖国の政情が依然として不安定のため帰国の日は決まらないという。
我々同窓生は、旭川東高校にて、多くの先生の指導のもとに何不自由なく勉学に専念できた。このことは、何にもまして、素晴らしいことであり、ハッサン氏の境遇を慮えば、感謝という言葉しか頭に浮ばない。
社会は、めまぐるしく変化しており、今日の常識は明日の非常識ということもあり得る。
旭川東高校同窓会には、さまざまな分野で、活躍している人が多い。同窓会が、各分野で活躍している人との幅広い情報交換の場になれば、同窓会の存在意義も、また大きなものになるに違いない。皆の力でそうしたいものである。
旭川東高の近況報告
旭川東高等学校校長 富樫 一憲(東高17期)
札幌突こつ会の皆様には、いつも本校に対する暖かい励ましやご支援・ご援助を賜り、心より感謝申し上げます。
◆多忙で充実した高校生活のスタート
4月8日、例年になく暖かい日でしたが、着任式・始業式・入学式が行われ、9日以降も、対面式、生徒会オリエンテーション、HR役員選挙、部局同好会集会、生徒会立会演説会等と続き生徒・教師とも忙しくも充実した日々を過ごしています。
◆今春の大学合格状況
今春の国公立夫には現・浪合わせて199名が合格。
北大48名、旭医大19名、札医大10名、東大8名、東工大3名、東外人4名、筑波大3名、横浜国大5名、大阪大2名など順調です。
また、私立大でも、286名の合格を出し、早大23名、慶大4名、中央大28名、東理太14名、青山学大7名、津田塾大3名、立命館大18名、同志社大10名など難関私大への合格も伸びています。
◆我が母校に暖かい援助を求める「陳情書」の署名
本校教師は、生徒の学習指導のため夜遅くまで献身的に勤務しています。さらに、道北地方には予備校がないハンディを克服して、ご承知のとおりの進学実績をあげています。
そこで、松野会長をはじめ同窓会の皆様が、①優秀な教員の増員②医学部特進コースや難関大学を意識した教育課程編成等を目指す署名活動を実施され、それを集めて昨年9月5日、高橋はるみ知事と吉田洋一教育長に陳情していただきました。
その効果があって、今年度、道教委から「医進類型指定校」に指定され教員の増員が実現しました。「医進類型指定校」とは、教育課程に医学部進学に向けた類型やコースを設け、医学部訪問や大学教授による出前授業など、大学と連携を図りながら学力向上を目指そうという指定校制度です。
本校は、従来より医学部をはじめ難関大学進学に力を入れ、合格者は少なくありませんが、これを契機にさらに強化します。
◆進路指導の新たな取り組み
昨年度は、本校では初の「東大突破ツアー」なる企画を実施しました。これは、希望者を対象に大学を訪問、在学の先輩を案内役にOB教授の研究室で説明を聞いた結果、参加者は相当な刺激を受け入学のモチベーションが高まったようです。今年度は東大以外の大学も視野に入れ、次の企画をするつもりです。
一方、残念ながら浪人を決意した卒業生が苦しい生活を送っているとき、本校では卒業担任団と進路担当者が、遠くは東京や札幌の予備校に通う卒業生を訪問して、悩みを聞き激励しています。卒業生は心待ちにしていて、とても嬉しがるようで、それが次の頑張りの原動力になっています。
◆今後ともご支援をよろしくお願いします
札幌突こつ会の皆様には、本校の更なる発展のため、今後ともご協力とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

2.各期短信
同期の動向
嘉屋のり子(旭中 4期)
突こつ会の運営は
青山 雄一(東高 7期)
高齢者元気で頑張ろう!!
桃井  勲 (東高12期)
卒業40周年記念懇談会報告
脇坂 明美(東高17期)
卒業35周年記念記念祝賀会を終えて
横内 隆志(東高23期)

3.投稿
昭和ノスタルジー
黒井 克行(東高27期)
3年前、映画『三丁目の夕日』が大ヒットした。今ほど便利でも裕福でもないけれど、人々は来るべき21世紀を夢見ながら前を向いて力強く生きる姿がそこにあった。昭和のノスタルジーに胸が熱くなった。ただ、それは何も当時を懐かしむ人だけでなく、平成生まれの若者の涙も誘っていた。世代を超えた安息がそこにあったのだろうか。映画の背景は今当番の、我々東高27期が誕生した昭和33年のことである。
この年、聖徳太子がデザインされた一万円札が初めて発行された。世は高度経済成長に沸き、六大学のスーパースター長嶋茂雄がデビュー。後の平成天皇が后となる美智子さまとの御婚約を発表したのもこの年で、世は希望に溢れていた。当時の日本人は建設中の東京タワーの鉄塔が伸びゆく先に明るい未来を見ていた。もちろん、この年に生まれたばかりの我々にその記憶があるはずもないが、時代の代名詞である三種の神器と共に育ったのは確かだ。白黒テレビに洗濯機、それに冷蔵庫。夜も更けるとテレビの両面は砂嵐となる。洗い終わった衣類は手動ハンドルを回して絞った。寝静まるやこっそり起き出し『11PM』に興奮したこともある。だが、今はテレビは不夜城で、冷蔵庫の霜取りに苦労はいらない。水のいらない洗濯機までもある。時代はどんどん先に進み、ボーツとしていたらそれこそ浦島太郎になってしまう。だから、人は安息を求めるのか。
ところで、平成の三種の神器を御存知だろうか。デジカメにDVDレコーダー、それに薄型テレビだそうだ。そこに超高性能携帯電話が加わるか。世はデジタル時代なのだ。小学校の時、図画で「未来の絵」が課題になると、誰もが林立する高層ビルにその隙をぬって走るハイウェイ、それに空飛ぶ車を描いたものだ。当時流行った『未来少年スーパージェッター』をイメージしたのか。ジェッターは手首に時計型の無線機をはめ、ハイテクを駆使して悪と闘ったが、今、我々が手にする携帯電話の方がはるかに優秀である。昭和に見させられた夢は昔のものとなってしまったのか。昭和ノスタルジー、それが『突こつ会』にある。今日ここに青春の忘れ物を探しに来た。平成不況の、先の見えない未来からいったん目をそらし、安息を求めて。
昨年、映画『続三丁目の夕日』も大ヒットした。その背景は昭和34年。東高27期の早生まれ組が誕生した年である。
今年は我々27期が青春のノスタルジーヘ御案内させていただきます。
昭和の歌謡曲
永江  朗(東高27期)
この春から早稲田大学に客員教授として勤務しています。学生たちと接して愕然としたのは、新入生はもはや平成生まれであること。考えてみるといまは平成20年なのだから当然ではあるのですが。ゼミの発表で「よく調べましたね」とほめると、「昭和生まれなものですから」と妙な謙遜をされ、なんと返事していいのか困惑しました(同級生より歳を食っている、という意味のようです)。
雑談で岸部シローの話題が出たとき、「かつての岸部シローは、現在でいうとSMAPの香取慎吾のような存在だった」と話すと、学生たちは「信じられない」という顔をします。そこで、GSブームがどういうものだったか説明し、「失神する女性までいたんですよ」と言うとびっくりしています。考えてみると、たとえにしたのがSMAPという時点ですでに「昭和」人感覚なのかもしれません。今どきの学生ならKAT-TUNか嵐のほうがピンとくるのでしょうが、悲しいことに私はいまのアイドルをほとんど知りません。
もっとも、私とて昭和30年代以前のこととなるとよくわかりません。ゼミで『平凡』という雑誌を取り上げたとき、岡晴夫と『平凡』の関係について話しましたが(岡晴夫をフィーチャーしたことが、『平凡』大ブレイクのきっかけになりました)、それはぜんぶ資料を調べて知ったこと。「憧れのハワイ航路」を聴いたことがあっても、流行期の同時代体験ではなく、テレビの懐メロ番組で流れていたからでしょう。
でも、美空ひばりや三人娘(美空、江利チェミ、雪村いずみ)、石原裕次郎、小林旭などの名前を見ると、「昭和だなあ」と感じます。あるいは、クレイジーキャッツやドリフターズ。ピンクレディーに山口百恵にキャンディーズでも。ところがデータを調べてみると、たとえば山口百恵のレコードでいちばん売れたのは『横須賀ストーリー』(昭和51年)の66万1千枚。オリジナルアルバムにいたってば『曼珠沙華』(昭和53年)の21万5千枚が最高です。
一方、昭和の終わりに登場したB’zは、ミリオンセラー(100万枚以上売れたもの)がシングル15作、アルバム19作もあります。でも山口百恵の歌は、当時の人は誰もが歌えたけれども、B’zはちょっと無理ですよね。そんなところが昭和と平成の違いかもしれない、なんて思っています。
スタルヒンだけじゃない! 印藤が!有地が!そして丸山が!
栄光の旭中・東高野球部歴戦譜より
札幌突こつ会事務 〈文責 田村康史(東高18期)〉
【母校野球部のスコアがwebアップ】
甲子園の七不思議にプロ野球300勝投手スタルヒンを輩出した旭中・旭川東高の未出場が挙げられるそうです。このたび北海道高等学校野球連盟から、大正9年第6回全国中等野球大会に北海道地区が初めて参加してからの全スコアがホームページに登録され、早速アクセスしてみました。母校の名前は翌年大正10年に登場、1-17の大差で函館中に7回コールド負を喫しています。ライバルの函館中、大正13年には札幌一中に負けた悔しさに耐えついに大正15年5度目の出場で初勝利を挙げ、印藤投手(旭中20期)の熱投で何と決勝まで進出しております。

【スタルヒン登場】
その後昭和4年、昭和5年と連続して決勝進出、甲子園まであと一歩となり、昭和7年スタルヒン(旭中30期)の登場となるのであります。尚、昭和6年小樽商がアレキサンドル投手を擁して2回戦進出という出来事があり、旭川の野球関係者からの働きかけでスタルヒンの旭中入学が特別に許可されたものと想像されます。その活躍は皆様ご存知の通りですが、やはり決勝戦突破は出来ませんでした。対称的に旭中篭球部は昭和9年全国大会で勝利、紫紺の優勝旗が津軽海峡を渡り旭川市民の大歓迎を受け、野球部と明暗を分けました。昭和9年スタルヒンが旭中3年で旭川を去り巨人軍創設に参加した後も、毎年全道大会に駒を進め強豪校の名を欲しいままにしています。昭和14年甲子園に出場した時の札幌一中の捕手(主将)として有名な福田氏は、昨年83歳ながら、しっかりとした口調で「旭川東高とは旭川中学のことですか。野球の強い学校でしたよ。」と述べられ、ライバルの健闘を称えておられました。

【悲願の全道優勝を春季大会で実現】
昭和24には2年連続甲子園出場の函館工と準決勝で対戦、延長17回11-10(資料参照)で死闘を制したものの決勝では主戦の有地投手(東2期)が力尽き、翌年は有地、吉田の二人の投手で臨むも決勝でまたもや涙をのんでいます。その後も挑戦は続き昭和28夏は阿部投手(東4期)、同年秋の新人戦は山沢投手東5期)が決勝で北海の壁に挑むもあと一歩で跳ね返されています。
現在の北北海道大会は昭和34年からですが、昭和36年には越前谷投手(東12期)を擁して釧路江南と優勝を争い一敗地に塗れて、実に夏の大会9度の決勝進出、秋の大会も含めると実に10度目となりますが、あと一勝が遠い野球部でした。
そんな悲運の歴史に遂にピリオドが打たれる時が来ました。昭和45年春季大会で全道優勝の栄冠に輝いたのです。丸山投手(東21期)の力投と東高打線の爆発で、スタルヒン始め並み居る先輩がなし得なかった宿敵北海に9度目の挑戦で遂に11-10(延長10回)のスコアで勝利しております。残念なことに春の代表は甲子園出場に該当せず、夢は未だ実現していません。

【甲子園へかける夢】
今年も選手の溌剌たるプレーで快進撃することを期待して止みません。願わくば、旭中時代に甲子園出場を期して他校より一回り大きくした応援団旗を紺碧の空高く掲げ、『旭中(東高)の敵何者ぞ!晴れの栄冠我にあれ!』と友と肩を組んで応援歌を熱唱、内野アルプススタンドを同窓生で一杯にしてみたいものです。聞くところによると、平成12年札幌一中(札幌南高)が61年ぶり3度目の甲子園出場を果したとき、同窓会(六華会)が総動員をかけ内野席に5000名を集め、その人数に驚いた高野連幹部に「どこの学校ですか。さすが北海道の名門校ですね。こんなに集まるのなら毎年出場して欲しい。」と云わしめたそうです。札幌突こつ会では野球部出身の平泉剛氏(東12期)、横内隆志氏(東23期)が役員として活躍されており、OB会も結成され万全の応援体制も整いつつあり、甲子園出場の時には総動員を掛けることになっております。
最後に明治36年(1903)4月1日上川中学が設立され、5月1日授業開始まもなく野球部も創設され、母校の歴史と共に歩んだ野球部で貴重な青春の日々、汗と涙を流し母校の名誉のために戦った選手ならびに歴代監督の皆様に深く感謝申し上げます。

*スタルヒン以外の有名野球人
今宮明男(旭中35期) 北大野球部部長、学生野球解説者としてTVに登場
干場一夫(旭中35期) 元プロ野球阪神投手

【戦績サマリー】(北海道高野連の資料より)
全道大会: 夏 36勝29敗、秋 2勝2敗、春 4勝1敗

ライバル対決:
対札幌一中(札幌南): 1勝2敗
対函館中(函館中部): 3勝2敗
対北海中(北海高): 1勝8敗

【大会戦績 詳細】
参加校 戦績等
大正9 (1920)6校第6回全国中等野球大会 北海道初参加
大正10 (1921)11校2回戦 1-17 函館中 (7回コールド)(稲垣―橋本)
大正12 (1923)12校2回戦 3-8 函館商(佐藤―印藤)
大正13 (1924)14校1回戦 1-6 札幌一中(印藤―松村)
大正14 (1925)19校3回戦 0-9 函館商(印藤―松村)
大正15 (1926)18校2回戦 11-8 釧路中 (印藤―山谷)
3回戦 9-8 札幌師 (印藤―山谷)
準決勝 3-1 函館商 (印藤―山谷)
決勝 4-9 旭川商 (時沢・山田―山谷)
昭和2 (1927)20校2回戦 6-1 札幌二中 (井下―高野)
3回戦 3-3 旭川師 (15回引分け)
再試合 5-15 (7回コールド)
昭和3 (1928)21校2回戦 8-6 旭川商 (小林―長門)
3回戦 4-5 札幌師 (小林―長門)
昭和4 (1929)22校2回戦 11-1 札幌一中 (佐々木・小林―阿部)(8回コールド)
3回戦 3-2 野付牛中 (小林―阿部)
準決勝 13-6 室蘭中 (小林・佐々木―阿部)
決勝 2-3 北海中 (小林―阿部)
昭和5 (1930)25校2回戦 7-2 函館中
3回戦 3-2 札幌二中 (阿部―三村)
準決勝 7-3 札幌商 (阿部―三村)
決勝 2-14 北海中 (阿部・中島―三村・阿部)
昭和7 (1932)22校1回戦 20-1 名寄中 (スタルヒンー瀬古)(7回コールド)
2回戦 6-3 小樽商 (スタルヒンー瀬古) *本塁打 小林
3回戦 1-2 函館中 (スタルヒンー瀬古)
昭和8 (1933)8校1回戦 4-0 野付牛中
準決勝 1-0 函館商 (スタルヒンー瀬古)
決勝 3-5 北海中 (スタルヒンー瀬古)
昭和9 (1934)8校1回戦 13-0 室蘭中 (スタルヒンー佐々木(行))(7回コールド) *本塁打 スタルヒン
準決勝 7-4 旭川師 (スタルヒンー佐々木(行))
決勝 3-4 札幌商 (スタルヒンー佐々木(行))
昭和10 (1935)8校1回戦 3-5 小樽商 (片桐ー渡辺)
昭和13 (1938)8校1回戦 9-2 札幌商 (結城―渡辺)
準決勝 1-5 北海中 (結城―渡辺)
昭和14 (1939)7校1回戦 1-4 函館工 (松宮・干場―高沢)
昭和15 (1940)8校1回戦 7-1 函館中 (干場―高沢)
準決勝 0-1 札幌一中 (干場―高沢)
*昭和20まで中断
昭和22 (1947)12校1回戦 16-1 札幌市立中 (山本―滝沢)(6回コールド)
2回戦 2-12 八雲中 (山本―滝沢)(8回コールド)
昭和23 (1948)12校第30回全国高等学校野球選手権大会
2回戦 5-2 釧路 (山本―中江)
準決勝 3-5 函館工 (山本―中江)
昭和24 (1949)9校2回戦 8-3 岩見沢 (有地―中江)
準決勝 11-10 函館工 (有地―中江)(延長17回)
決勝 2-12 帯広 (有地・黒川・中尾―中江)
昭和25 (1950)15校1回戦 3-0 滝川西 (有地―神田)
2回戦 3-1 帯広柏陽 (吉田―神田)
準決勝 7-5 函館東 (有地・吉田―神田)
決勝 2-4 北海 (吉田―神田)
昭和26 (1951)16校1回戦 3-4 帯広柏陽 (吉田・有地―神田)
昭和28 (1953)16校1回戦 6-2 函館西 (阿部―高橋)
昭和29 (1954)16校1回戦 6-1 浦河 (山沢―西山)
2回戦 0-1 歌志内 (山沢―西山)
昭和31 (1956)16校1回戦 14-3 函館中部 (笠井―平田)(7回コールド)
2回戦 1-11 北海 (熊谷・笠井―平田)(8回コールド)
昭和32 (1957)16校1回戦 6-7 室清水丘 (熊谷・柏原―井上)(延長11回)
*南北大会へ
昭和36 (1961)8校1回戦 14-0 釧路湖陵 (越前谷―吉倉)(7回コールド)
準決勝 3-0 網走南ヶ丘 (越前谷―吉倉)
決勝 0-4 釧路江南 (越前谷―吉倉)
昭和59 (1984)12校1回戦 3-1 小清水 (林(直)-樋口)
2回戦 4-3 滝川 (林(直)・本間―樋口)
準決勝 0-3 広尾 (林(直)-樋口)
平成12 (2000)16校1回戦 7-0 北見柏陽 (楠-金井)
2回戦 1-3 帯広三条 (楠-金井)
平成15 (2003)16校1回戦 0-1 砂川北 (中田―窪田)
*秋季全国高校野球大会始まる
昭和28 (1953)11校2回戦 1-0 帯広柏陽 (山沢―西山)
準決勝 2-0 芦別 (山沢―西山)
決勝 0-1 北海 (山沢―西山)
昭和31 (1961)12校1回戦 3-9 苫小牧東 (笠井・柏原―阿部)
*本塁打 笠井、柏木
*春季全国高校野球大会始まる
昭和45 (1970)12校1回戦 6-3 室蘭大谷 (丸山―吉田)
2回戦 5-4 帯広三条 (丸山―吉田)
準決勝 6-1 札幌光星 (丸山―吉田)
決勝 11-10 北海 (丸山―吉田)(延長10回)
平成11 (1999)16校1回戦 1-5 札幌第一 (飛澤―柳澤)

4.報 告
平成19年度事業報告・会計報告

5.お 悔やみ

6.あとがき
会 報担当 石川 佐和子(東高27期)

7.あとがきの後
当番長 横澤  均 (東高27期)

平成19年発行 会報第27号

<第27号の内容>

1. あいさつ
少子化問題について
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
20世紀に入って日本はいくつかの難問にぶつかった。前半では成熟化経済の対応、高齢化の進行、環境問題などに取り組まなければならなかったが、半ばすぎて基盤的な問題の壁にぶつかった。それは「少子化問題」である。2030年に一億人を割り、21世紀後半には現状のままで放置すると、日本の人口が半分になってしまう。これへの警鐘がどうしても必要である。発展途上国では子供の数が極めて多い。かって私どもが子供の頃は非常に多かった。
私自身の家庭でも兄姉が多くて学校の家族調査がある時は、私は兄姉でも下の方で、調査表に記入する欄がなくて先生に「私の記入する欄がないのですが?」と聞いたら「どこか空いてる片隅に書いておけ!」と言われたものでした。
昔は「夫婦で共白髪、今は親子で共白髪」とか「今は親子で年金生活」などの標語めいた警句で、すでに到来している高齢化社会に警告を鳴らし続けているのです。
たしかに親が90才まで生きていれば息子は充分年金を受け取る年齢になってしまう。しかし問題は親が90才まで長生きしてしまうことではなく、両親と祖父母を養う年齢層が減りつつあるということである。
戦後まもなく、日本の出生率は飛躍的に伸びた。戦地から父親になるべき男たちがぞくぞく引き上げてきたからである。いわゆる団塊の世代と呼ばれる世代である。
高度成長時代に親になった彼らは、子供への教育熱を持っていた。一流大学から一流企業への就職が子供への将来を約束していると疑わなかったからである。
子供に充分な教育をしてやるためには子供の数が多くては出来ない。かくして団塊の世代が作る子供の数は平均2人になり、3人以上だと「多くて大変ですね」ということになった。一人の女性が一生で生む子供の数を「合計特殊出生率」と言っているが、人口を維持するためには、合計特殊出生率は2.08なければならないといわれている。
団塊世代が2人平均の子供を持つということは、現在適齢期に達したその子供達の世代で人口がすでに減少しはじめている事を示している。さすれば、人口の減少を移民や難民や外国人労働者の受け入れで補えばいいという説もあるがそれは不可能でないかと思う。日本には移民を受け入れる土壌がないと思われるからだ。外人移住地もないし、異文化同士の摩擦もほとんどない。世界一治安がいいと言われている理由もここにあると考えられる。しかしそれでは日本も少数民族に転落する可能性が極めて高く、人口が減れば国力が縮んでしまうに違いない。やはり何としてでも出生率の低下をくい止める必要があると思われる。
それでは出生率を上げるためにはどうすればいいだろうか?。 私は多少のモラルの逸脱があるかもしれないが、第一の方法は「北欧型」である。北欧やフランスでは「婚外子」の生みやすい環境を整えている。北欧諸国では婚外子が50%を超えていると言われている。また婚内、婚外を問わずに子供が生まれた場合に国が積極的に援助する体制と、日本に根強くある婚外子の差別を撤廃するのだ。なにやら不倫のすすめをしているような気持ちがしないでもないが、時代に対応してモラルに多少の変化があるのは仕方がないのではないでしょうか。子供は国家の財産であり、将来の図を支えていく大切な宝物である事を忘れてはならない。
旭川東高で学んだ幸せ
旭川東高等学校東京同窓会会長 安井 規雄(東高17期)
「アンネの日記」のアンネ・フランクの父親が、第二次大戦の初期に書いたとされる手紙が、米国で見つかった。それによると、アンネの父は米国への移住ビザを申請していたという。
しかし、ビザを得ることができず、一家はナチスに捕えられ、収容所に送られたうえ、アンネは苛酷な日々の果てに15歳でこの世を去った。
同じ大戦初期に、リトアニア領事代理であった杉原千畝は、迫害に怯える多くのユダヤ人に日本を経由して、第三国へ抜けられるビザを発給した。いわゆる「命のビザ」と言われるものである。このビзаを受け、15歳で米国に渡った女の子がいた。
当時、アンネも15歳、「命のビザ」を得た女の子も15歳。アンネは苛酷な生活を強いられ、この世を去ったが、もう1人の15歳の人は、現在5人の孫に囲まれ、米国にて幸せに暮らしているという。
世の中でよくいう「運命のいたずら」といえば簡単であるが、世の中の矛盾の多さを感じないわけにはいかない。
私達同窓生は、旭川東高という伝統ある高校で3年間を過ごした。卒業して間もない頃は、それ程母校に多くの感慨を抱かなかったように思うが、卒業して時を経るにしたがい、昔の学びやをなつかしく思い、また旭川東高にて学んだことで今の自分があることを思うと、感謝の念も素直に覚える。
ビザを得られなかったアンネと「命のビザ」を得た人との差はあまりにも大きいが、旭川東高で学んだことも大げさかも知れないが、一つの幸せな運命(めぐり合せ)だったかも知れない。旭川東高にて学んだ3年間を大切にしたいものである。
これからの旭川東高の発展を祈念するとともに、札幌突こつ会が同窓生のみならず、後輩のためにも、有意義な会であり続けることを心より期待する。

2.各期短信
突こつ会設立当時のおもいで
第7代会長 斎木 登(旭中35期)
正式に現在の札幌突こつ会が会則により発足したのは昭和35年6月ですが、それ迄の同窓会活動については「われら同窓」(北海タイムス昭和51.10.9)に載っておりましたので先ず簡単に記載しました。
昭和23年頃敗戦後の混乱時代、星野半司氏(2)、小原正生氏(7)、庭山四郎氏(23)、田上正敏氏(23)の諸先輩が中心となり、札幌神社屯営を会場に約10年間の間に5回程同窓会を開催し、その間各クラス、職場、大学等で自由に集まっておりました。又札幌では会員が政財、教育、文化各方面で既に大活躍をされて居ました。たまたま前記の23期の方々と35期の仲間がお会いし、是非旭中会を統一組織化しようと話が進み数回の企画準備を重ね念願の創立に至った次第です。
第1回の創立総会は昭和35年6月、会場は新築早々の大通西4秋田銀行6F会議室、会費350円、出席65、当番期は(23)(35)でした。
当日は御来賓の恩師、上中の大先輩を迎え会長小原正生氏(7)の御挨拶、小菅元雄氏(4)の乾杯に始まり華々しい門出を祝する事が出来ました。校歌、応援歌、‘‘しまれ がんばれ’’の大合唱も当時は男性の大声のみ。さて当日の設営は銀行の小使いさんとで机運び、当番の配膳、後片付けの大奮闘で無事終了。
次の会場はやはりホテルでとなりました。
第2回は北1西2旧市産業会館で出席91、会費500円、当番41期でした。会にとって最も大切な会則も庭山氏(23)小野寺氏(33)の両弁護士さんにより盤石の基礎も作られ、定期総会は“時の記念日”6月10日と明記されています。
初めての旭川中学札幌同窓会名簿昭36.4.1現在、は安味氏(23)の印刷所の御尽力によるものです。名簿の一部を抜粋しますと。
第1回卒(明41)0名 第23回卒(昭5)27名
第2回卒(明42)2名 第35回卒(昭17)21名
:            :
第10回卒(大6)4名 第42回卒(昭24)43名
(参考)会員数の推移
第1回  昭35(1960)旭中(2)-旭中(42)  860名
第20回 昭54(1979)旭中()-旭高(29)約1,700名
第40回 平12(2000)旭中(13)-旭高(44)約3,300名
以上主に当会初期の経過と先輩方の御努力に感謝し、それを今日に引継ぎ力強い会に育てられた歴代役員と会員の方々に心から御礼を申し上げ併せて今後の母校東高と突冗会の益々の御発展をお祈りする次第です。
卒業50周年記念行事を終えて
稲田  稔(東高 6期)
東京マラソン完走記
佐久間 哲(東高23期)

3.母校 の近況
全国大会に多くの部活動が出場
旭川東高同窓会事務局 水野 雅文(東高31期)
応援いただいた皆さんへ
旭川東高音楽部前部長 鈴木 励

4.77 年前の修学旅行
77年前の修学旅行 ―幻の昭和5年旭中修学旅行記発見される
札幌突こつ会幹事長 田村 康史(東高18期)
77年前の修学旅行のしおりが発見されました。何と行き先は樺太。当時の話によると、旭中の生徒は裕福な家庭の出が多く、京都、東京にはいつでも行けるので敢えて満州とか朝鮮半島など辺鄙な地を選んだとのこと(一説には柳田國男の民俗学による郷土研究に多くの教育者が参加、その影響かと云われています)。樺太3泊、車中泊、船中泊の5泊6日の強行軍で、これは今も変わらぬ東高の伝統?みたいです。注目すべきは昭和5年頃は「シマレガンバレ」の校訓がなく、盛んに「旭中精神」が叫ばれていたようです。その意味するところは質実剛健、礼儀正しく、周りから疎まれることなく誇りを持てと云うところでしょうか。また大正デモクラシーの名残か、しおりの序文を拝読すると、科学の眼で物事を客観的に観察、繊細で素直な心、誇り高い、ロマン溢れる詩情が感じられ、旭中の教育目標の崇高さを示すものと思われました。
昨年8月9日東京同窓会の中村事務局長(東17期)から札幌突こつ会へ問合せがありました。加藤直樹氏(道北美深町在住)から『昭和5年(1930)樺太修学旅行記Asahigawa Middle School Excursion』を持主またはご遺族に返還したいとの申し出があり、東京同窓会で調査の結果、持主の友江保氏は旭中24期の札幌突こつ会会員で、残念ながら10年前に亡くなられ、現在は奥様とご家族が月寒にご健在と判明したので、札幌突こつ会の意向を伺いたいというものでした。直ちに本人と交渉の末、8月19日美深町を訪ねて『修学旅行記』をお譲り戴きました。加藤氏は30歳位の好青年で、大学で郷土史に興味を持ち、平成5年市内の八光書房という古本屋にて購入したとのことでした。
『修学旅行記』はガリ版刷りのしおりで年月を感じさせるものでしたが、知り合いの印刷屋に依頼して9月13日見事に復刻本として蘇り、ご遺族、提供者、東京同窓会そして札幌突こつ会に配布、現本は五本松資料館で保管されることになりました。ページをめくると、最初に行程表、序文、樺太の沿革、地理が詳述され、編成表、旅行心得などが綴られています。
東高を愛する皆様のために、記録に基づいて77年前の修学旅行を再現してみましょう。
昭和5年6月9日夜9時旭川駅集合。
旅行団長宮野先生以下引率教師7名、写真師1名。
 第一区隊監督小沼先生、区隊長福島弘君以下37名
 第二区隊監督佐藤先生、区隊長三浦信一君(友江保氏は宿舎係助手)以下40名
 第三区隊監督高島先生、区隊長水野茂君以下39名
 第四区隊監督小林先生、区隊長山田豊君以下37名  計153名
整列点呼、服装は冬服着用、黒色マントにゲートル携行、持ち物確認(簡単な応急薬持参)。尚、リュックサック、水筒、写真機、双眼鏡の持参可、小遣い五円。
全員まだ見ぬ樺太に胸の高鳴りを抑えつつ緊張した面持ちで午後11時10分夜行列車の乗り、旭川駅を出発しております。6月10日早朝6時42分稚内駅(現南稚内駅と思われます)に到着。人口1万人の稚内町は宗谷線天塩線(昭和5年4月天塩線が宗谷本線に改称、宗谷線は北見線に)の終点で、樺太へ渡る人で賑わい商工機関が集結して活気溢れる港町です。市内の木谷旅館より弁当が届けられ直ちに稚内港駅(現在の稚内駅)に移動して午前8時45分、稚泊航路の誇る日本初の砕氷貨客船亜庭丸(定員745人、貨物470トン)に乗船、針路を北にとり宗谷海峡の荒波を越えて一路新天地の大泊港へ。
8時間の船旅で船酔いにも負けず午後4時45分に全員樺太に記念すべき第一歩を記しました。大泊町は北海道、内地との交通の要衝に当り、露領時代には「コルサコフ」および「ポロアントマリ」と称し、露国政府、日本領事館が置かれ、当時人口2万7千を擁する港湾都市です。第一、第二区隊は朝日館ホテル、第三、第四区隊は北海館ホテルに宿泊、豪華なロシア料理のおもてなしを受けております。日頃の自治節制の徳を実地に試練、顕現する機会でもあり、名門旭中の校名発揚を念頭におきながら、明日からの見学ヶ所へ思いを馳せる生徒たちでした。6月11日6時起床、8時30分ホテル出発、巨大な冷凍会社に驚き、養狐場で豪華なミンク毛皮製品に目を奪われ、大泊中学の訪問では力強くエールを交換、親善野球大会では格の違いを披露して多忙なスケジュールを終え、その名も懐かしい神楽岡(大泊市街港湾を脚下に眺め遠く西能登呂岬を見渡せる景勝地)に登り昼食となりました。次の予定地めざして大泊駅午後1時10分出発の列車に乗り、午後3時15分豊原駅に到着。豊原町は樺太庁の所在地で政治文化の最重要都市です。露領時代「ウラジミロクカ」と称し、殖民地監...

5.報告
平成18年度事業報告・会計報告

6.お悔やみ

7.編集 後記
ありがとうございました
会報誌担当 山道克也(東高26期)
えっ、東高26期? 1月のある日
年が明けて間もなくのこと。山際君から、今年の札幌突こつ会の同窓会に向けて、会報を担当してくれないか、とのこと。
彼が当番長を引き受けたのは、「さもありなん」。ただし、スタッフが足りないらしい。そのとき初めて自分が東高26期であることを知ったのである。

田村幹事長との出会い 3月8日
そんな私であるから、会報の存在すら知る由もない。作成要領から原稿依頼先まで、手取り足取り教えてくださったのがこの人。何せ人を乗せるのがうまい。かてて加えて、同窓会に対する田村さんの熱意と行動力を目の当たりにして、押し付けがましいところが全くないだけに、私も何かやらなきやと、つい思ってしまったのである。

すがる思いで原稿依頼 3月15日
とは言うものの、何せ一度もお目にかかったこともない人に、原稿を依頼するのだ。電話で「同窓生です。」と言っても、胡散臭く思われるだけ。先ずは手紙を書く。「すがる思い」を伝えたいが、それを文字にするのは、とても難しい。
ところが、皆さん快く引き受けてくださるではないか。却って励ましの言葉までいただき、すっかり感激してしまった。私の努力が実ったというのではなく、もともと杷憂だったのだ。
お忙しい中、本当にありがとうございました。

同窓会の案内を送ってくれるだけでも感謝しなきやね 4月14日
案内状の発送準備である。山際君が用意した名簿をチェックしながら、宛名シールを貼り、案内状・返信用はがきを封入する。約3,500人分。午後1時から晩飯も食わずに午後9時まで。
伊藤君、岩崎君、成田君ご夫妻、稗田君、松原さん、山際君、本当にお疲れ様。成田君いわく「同窓会の案内を送ってくれるだけでも感謝しなきやね。」その場の誰もが納得の一言でした。

ただただ感謝 6月10日
同窓会事務局の東高の先生方、旭川の仲間達や各方面から物心両面のご支援をいただいた。お一人おひとりのお名前を挙げてお礼を申し上げたいが、割愛致しますことを、どうかお許しください。とってもありがとうございました。心からお礼を申し上げます。

平成18年発行 会報第26号

<第26号の内容>

1.あいさつ
感動をありがとう!!
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
第46回札幌突こつ会に多くの同窓生のご出席を賜り誠に有難う御座います。その上この会にわざわざ遠方からご来賓としてご出席を頂いた本部同窓会長をはじめ現校長先生、役員の方々、叉本年もお元気でご出席頂いた恩師の先生方のお顔を拝見できることはこの上ない幸せと存じ感謝申し上げます。
さて、世の中は昨年から今年にかけていやな、不可解な事件が続きました。耐震建物の問題、小学生殺害事件、幼児の虐待事件、ライブドア社社内問題等数え切れない程社会問題と不快な事件が発生しました。
その中でも我々が人間として許しがたい事件は耐震問題事件でした。人間生活で一番大切なことは衣食住であり、近代生活になってそこに安心、安全がついて来た事は多くの者が認め要求する時代なのです。いろいろと理由はあれど安心の出来ない建物を設計する行為には大いに憤慨と怒りを感じたものです。
又ライブドアの堀江氏は「会社経営は斯くあるべき、金こそすべて」と行動し講演して日本のトップリーダーごとき振る舞いをして将来日本を背負って行く若者をあおり立てたのでした。
昔の小学校の校庭には必ずと言って薪を背負って歩きながら本を読んで勉強する二宮尊徳(金次郎)の銅像が有ったものです。
尊徳は終戦後米国人のリンカーンにも匹敵する偉人として一目置かれたといわれます。尊徳は至誠、勤勉、分度、推譲の四つの教えを説きました。分度は収入に応じた暮らしをする事、推譲は節約によって余った分家族や子孫のために蓄えたり、他人や社会に譲ったりする事だと言います。報徳精神と言われる尊徳のこうした教えの一端でも堀江被告が学んでいたら事件は起きなかったかも知れません。
しかし、暗い話題ばかりではありません。トリノ冬季五輪ではフィギュアスケートの荒川静香選手の連続ジャンプや高度スピンを展開し彼女の代名詞であるイナバウアーを華麗な滑りで披露して観客を魅了し、待望の金メダルを獲得したのです。日本中が感動と喜びに沸いたと同時に彼女が言った言葉が印象的でした。「挑戦には常に挫折がある、その挫折を乗り越えてこそ進歩がある」と言った会見に感動と奮起を貰った気が致しました。その後、WBC(ワールドベースボールクラシック)の戦いではイチロー選手の活躍に感動致しました。彼は長い間外国での試合が多くて、その都度外国の国歌を耳にしてきた環境の中で一度は日本の国歌と国旗を掲げたかったのではないでしょうか?試合の前の国歌演奏を直立不動で聴いている姿、日本のチームの為に今まで見た事のない真剣な表情、優勝した時に国旗を力いっぱい振っている姿には優勝以上に感動するものがありました。私達もあの感動をバネとして本年のこの会のスローガンである「もっと元気に!シマレ!ガンバレ!」で頑張ろうではありませんか!!
最後になりましたが、本年の当番期の東高25期の皆々様にはこの会の準備と対策に当たり日夜奮闘して頂いた事に心から感謝とお礼を申し上げます。本当に有難う御座いました。
進学校としての体制維持を
旭川東高等学校同窓会長 松野 和彦(東高16期)
同窓会に積極的に参加されている皆さんは、出身校である旭川東高を誇りに思っておられるのは当然の事と思います。しかし、どれほど素晴らしい高校になっているのか、特に旭川以外にお住まいであれば最近の資料等はお持ち合わせないかと思い、一筆起草することに致しました。
去る4月10日、恒例ではありますが招かれて東高入学式に参列し、その後のPTA説明会に同席させて頂きました。この中で、いつも学校の進路指導部のオリエンテーションがあり、道内三大進学校としての前年度結果と教育方針が提示されます。この3月の成績は、卒業生280名中、国公立(除く短期)進学者が121名(京大4名、名大1名、東北大5名、一橋1名、北大36名他)、私立140名(慶応4名、早稲円15名他)、文科省所管外(防衛大、航空保安大)6名と云う成績であり、過年度卒業生を加えますと、国公立175名、私立265名と云う事であります。前年は国公立現役合格者137名と50%に届かんばっかりの勢いでした。資料のある過去5年間で見ましても国公立現役進学者は40%台を維持しており、東大・京大合格者はH13年15名、14年15名、15年6名、16年9名、17年11名であり、本年は6名と名門進学校に相応しい成績を残しているのであります。後背地人口を考慮致しますと、道内ナンバーワン進学校と豪語しても憚らない内容かと思います。しかも、進学校にありがちな、出来る生徒を甘やかすと云う事は無く、学校標語(シマレ ガンバレ・挙校大和)、校訓(生をよろこべ・矩にしたがえ・全力をつくせ)の具現化を目標に生活指導を行い、全生徒の部活動参加を推進した上での成果でもあります。
部活動での実績も目覚しいものがあり、野球部の甲子園出場こそ達成しておりませんが、春高バレーでは、一昨年、昨年と連続で全国大会に駒を進めたのを筆頭に、運動部各部の全道大会は毎年のことでありますし、文化部各部の全国大会出場は、恒例行事といっても過言ではありません。又、部活動でのガンバリが受験勉強にも好影響を与えていると云う説明がありました。進学校間における模試において、1~2年生の間は札南・札北に後塵を拝しているが、3年生になると並び、頭一つ飛び出るとの事です。
われらが母校は、このように素晴らしい高校へと成長しておりますが、問題が一つあります。それは、少子化による生徒数減で入学間口を減らされ、教員定数が減る可能性のある事です。
現在、東高は7間口ですが、校長によると、進学校としての体制は現状がぎりぎりで、これ以上の間口減では専門科目の教師を確保出来なくなるとお話されていました。同窓生としては当然、東高が進学校として存続していくことを希望している事と思いますが、何かの折に普通高校の間口減が話題になりました時は、必ずや進学校・東高の立場でご発言下さいますようお願いし、拙文の終りと致します。
最北の動物園は日本一
東京同窓会会長 安井 規雄(東高17期)
平成16年7月と8月の旭山動物園の月間入園者が、上野動物園を上回り日本一になった。8月は約32万人で、約9万人も上回った。
旭山動物園は、かつて売却話もあった。「市民から見捨てられたら終りだ。市民に愛される動物園にするため、何を伝えたら良いのか」飼育係全員で、そう悩んだ末「動物ってすごい」と思ってもらえれば、動物に会いに来てもらえるだろうと考えた。
飼育係が、目の前にいる動物のワンポイントガイドを始め、手作りの説明看板を用意し、飼育係全員が動物園の問題を自分の問題として考え、動物の魅力を伝える方法を少しずつ創り続けた。特にマイナス30度にもなる冬は、動物の様子を注意深く見守らないと危ない。暖房を工夫したり、紫外線やビタミン不足を補う方法を考えたり、動物たちが元気に過ごすため足りないことはないかなどと常に考えていた。そのうち「オランウータン舎」が出来、オランウータンの綱渡りに成功した。
これらの基本は、動物が退屈しないように工夫する「エンリッチメント」(飼育環境の改善)と、動物の特徴的な行動を見せる「行動展示」であるという。
旭山動物園が上野動物園を入園者数で上回ったことは、チームワークによって「どうしたら市民に受け入れられるだろうか」と考えた成果である。
売却話まで出た旭山動物園の成功・発展は何事もあきらめずに、チームワークよく懸命になって考えると、良い結果が生まれる事を私達に教えてくれたと思う。
旭山動物園の成功・発展は、郷里を離れる旭川東高東京同窓会の会員にも郷里を思い起こさせ、また勇気を与えてくれたように思う。
今後もご支援をお願いします
旭川東高等学校校長 富樫 一憲(東高17期)
1 ごあいさつ
札幌突こつ会の皆様には、日頃から「シマレ・ガンバレ」の精神で、各界のリーダーとしてご活躍されるとともに、本校に対する暖かいご支援と激励を賜り、心より感謝申し上げます。
この4月に、濱本前校長先生の後任として函館中部高校から歴史と伝統ある旭川東高校に赴任しました。今までに、名寄・旭川・根室・札幌・北見・札幌・登別・函館と全道各地を回り、10校目の高校として14年ぶりに旭川市に戻ってきました。
同窓生の1人として、責任の重さを痛感しながら、本校の輝かしい実績を汚さぬよう全力で目的の遂行に当たる所存です。

2 今年度の入学式
4月10日、まだ肌寒さを残した気候ながらも、本校体育館で全日制課程入学式が行われ、新入生280名は、あこがれの東高生としてのスタートを切りました。
私は、式辞の中で「高校生活で大切なことは、何かに向かって一生懸命努力するという姿勢そのものです。自分が打ち込めるものに果敢に挑戦してほしい。」と激励。それに応えて、新入生代表の田中大貴君は「向学心を持ち学業に真剣に取り組み、充実した3年間を送ります。」と宣誓しました。

3 今春の大学合格状況と進学指導
今春の国立大には、現役・浪人合わせて175名が合格。北大56名、東北大6名、東大2名、京大4名、一橋大1名、東工大1名、東外大3名、名大1名、神戸大2名など順調です。
また私立大でも265名の合格を出し、早大26名、慶大8名、中大34名、東理大13名、青学大4名、津田塾大2名、立命館大14名、同志社大6名など難関私大への合格も好調です。
模試・講習についても、夏期講習、冬期講習(含センター講習)放課後講習、センターリハーサルテスト、2次試験対策学習会、個別指導、各種模試を精力的に実施し、学力向上に努めております。

4 文武両道を目指して
文武両道を目指す本校では、部活動加入率は90%に達し、進路目標達成への努力とあわせて、体育系・文科系の両面で、毎日活発な部活動が展開されております。
苦労すること、汗を流すことを好まない風潮の中で、これは驚異的な数字です。この頑張りと勢いは、必ずや進路実績にへもつながるものと確信しております。

5 今後ともご支援をよろしくお願いします
今後も、学校標語「シマレ・ガンバレ」の精神を在校生にしっかりと引き継ぎ、21世紀のリーダーとして豊かな心を持ち、たくましく生きる東高健児を育成すべく、教職員一同英知を結集して教育活動に取り組んでまいります。
札幌突こつ会の皆様には、本校の更なる発展のため、今後ともご指導とご支援を賜りますようお願い申し上げます。

2.各期短信
懐かしい面々との顔合わせ
島村 勇志(旭中37期)
旭中35会在札13日会45周年記念の集い
桑原 政治(旭中35期)

3.投稿
狭い日本にや住み飽きた!いざ比国へ!-南の国でのんびり、ゆったりした生活
澤田 洋一(東高18期)
1 外国への憧れ
小学生のころ白黒テレビが家庭に普及し始めました。テレビ番組の何もかもが珍しかったのですが、海外のことがテーマになった番組を見てはそのころの日本の家庭や社会そして風景との違いに驚き、いつか自分も海外に行ってみたいとの憧れを子供心に強く感じました。
その後、日本は高度経済成長の時代となりましたが、海外旅行は依然として高嶺の花でしたし、働き盛りの年代は、仕事に追われ、仕事を追いかける日々でした。あるとき、思い切って新しい世界を見る機会だと海外旅行に出かけましたが、現実の海外の生活などを目の当たりにして大きなショックを受けました。特にアジアの経済的に恵まれていない国々では、人々は本当に質素な、地方によっては貧しい生活をしていましたが、その表情は明るく、親切で、家族が助け合って生活をしていました。核家族化が進み、自己中心的で、お金が第一とされている日本の社会と比べて、私たちの社会は何かおかしいのではないかと感じました。そして、自分もいつか機会があれば外国で生活してみたいという気持ちが沸いてきました。

2 どうしてフィリピン
こうしているうちに海外生活はどのようにしたら実現できるのかを考え始めました。費用はどれくらいか、外国語、特に英語をある程度話せなくてはいけないのか、どこの国が自分にとって住み良いのかなどです。何よりも大切なのは自分自身が健康で元気に海外生活を楽しめるということであると強く感じるようになりました。私は一人暮らしをしていましたので、早期退職をして元気なうちに海外に出ることはできないだろうかということを考えることも多くなってきました。
ある日、ホームページを見ているとフィリピンの松下電器産業(現地会社)の取締役を務めていた方がコンサルタントとして会社を経営する傍ら、自宅を提供してホームステイを受け入れていることを知りました。ホームステイの間、希望する人は英語、スキューバダイビング、ゴルフなどのレッスンも受けられるということでした。フィリピンであれば日本との時差も1時間ほどですし、3時間半程度のフライトで行くことができます。
退職後はこの方の家にホームステイをして、英語の勉強をしながら海外生活を体験し、次のステップにつなげたいと考えるようになりました。

3 海外生活へのアプローチ
平成17年の春に早期退職をした後、日本語教師養成課程(420時間)を半年間受けることにしました。海外で生活して、その国の人と交流をするには、日本文化を伝え、理解してもらうことも大切であり、私は長く茶道、少林寺拳法を趣味としていましたし、数年前からは友人から絵てがみの手ほどきを受けていましたので、日本文化の一端は理解しているつもりです。それに加えて日本語を教えることができれば、地元での交流に役立つと考えました。日本語教師養成課程を受講した仲間の多くは若い方で、外国・外国語に興味を持ち、海外旅行あるいは海外で生活をしたこともあり、海外での生活に抵抗感のない雰囲気があり、様々な海外情報を得ることもできました。
フィリピンのホストにメールを送り、日本語教師養成課程を終えた後の平成17年11月に2週間のホームステイをお願いしました。ホストは申し出を快く受けてくれたばかりでなく、日本語教師の仕事についての情報も提供してくれたのです。

4 不便さとゆったりした生活
それまでフィリピンに3、4回旅行したことがありましたが、フィリピンに対するイメージは多くの方と同じように政情不安定で経済的には恵まれておらず、安全面に問題のある国であると思っていました。初めてマニラを旅行したとき、スラム街があり道端で物乞いをする人たちがいること、マクドナルドなどのファーストフード店でも入り口あるいはレジに拳銃を持ったガードマンがいることに驚きました。デパート、スーパーなどでも同様ですし、銀行となると入日にショットガンを持ったガードマンが警備をしていて、出入りする人を一人ひとりチェックしていました。夕食をホテル近くのレストランでしようと思い歩き出すと、ホテルマンから外国人は危険だからタクシーを使うように言われたこともありました。
お世話になったホストのお宅はマニラの南のラグナ州にあって、ガードマンが24時間警備をする静かなビレツジの中にありました。2階建てで3軒の家が一つになったタウンハウスの1軒でした。ここでホームステイをしてホストからフィリピンの生活について話を伺い、私の将来の希望も話しているうちにフィリピンでの生活が具体的になってきました。フィリピンで生活する場合、特別居住退職者ビザ(Special ResidentRetiree's Visa)を取ることが便利であり、就労許可証を受ければ日本語教師として働くこともできるということでした。 様々な条件も考え、特別居住退職者ビザを取得してホストの住むビレッジの中に家を借り、フィリピンで海外生活の第一歩をスタートさせることにしました。このビレッジは安全面での心配はありませんが、中には140軒はどの住宅があるだけで、レストラン、商店などはありませんし、一番近くのスーパーまで車で5分くらいかかります。どこに行くにも車が必要ですし、夕食を外でするときは車で20分くらいのところにあるレストランまで行くことになります。各家には住み込み(又は通い)のメイドがいて、メイドに家事のすべてをしてもらっています。使用人でありながら、時として家族のようでもあって、待遇はそれぞれの家によって少し異なるようですが、雇う側と雇われる側の厳しい関係もあるようですが、メイドは元気に明るく働いている人が多いようです。

5 ロングステイの楽しみ
私の住むビレッジや近くのビレッジには50歳代から定年退職した日本人の方も住んでいます。その方々は、スキューバダイビング、ゴルフ、あるいは趣味を生かした仕事などをしながら生活を楽しんでいます。一番関心のある生活費は生活の仕方によって変わるようですが、一般的には日本での半分程度の生活費で日本にいるときと同じような生活ができると言われているようです。ホストから、自分にあった体を動かす趣味を持つように勧められましたので、まず散歩とゴルフを始め、これらを通じて新しい友人と知り合いたいと思っています。生活が落ち着きましたら日本語教師としての仕事も始める予定です。収入を得ることとは別に特に若い方々と交流できることを楽しみにしています。生徒が子供たちであれば、自分が子供のころに持ったのと同じような外国への憧れを大切に大きく育ててあげたいし、若い働く人たちであれば、将来日本で生活するときに役立つ情報も取り入れた日本語の勉強となるようにしてあげたいと考えています。
フィリピンでの生活が順調でしたら、海外生活を心配しつつも応援してくれている両親と姉・弟、そして札幌の同期会(栄天会)の友人に遊びに来てほしいと願っています。私の小さな家にも泊まってもらい、のんびり、ゆったりした生活を少しだけ体験してほしいものです。多くの方に海外での生活、特にフィリピンでの生活がどんなものであるのか実際に見て、体験して、少しだけ理解してほしいと思っています。海外での生活が合う人も合わない人もいれば、その人に合う国も様々だからです。
私は、自分のこれからのフィリピンでの生活がゆったり、のんびり、楽しく、さらに心豊かなものにしたいと願っていますし、そうであるように自分でも努力したいと決意しています。そして、いつか私の生活の様子を皆様に報告したいと思っています。
牛肉の独り言
岸上 裕幸(東高25期)
今日は私(牛肉)のおしゃべりにお付き合いください。
牛肉=脂肪=太る、いや格好のスタミナ源、いろいろと言われているようですね。でもどんな栄養を持ち、食べる効果は何か、よく知っている方は少ないように思います。
・アミノ酸価
赤身と脂肪に分けて、まず赤身に着日。
栄養上の間では、赤身は上質なタンパク源として認められています。ヒトがその命を維持するために必要な8種の必須アミノ酸の含有バランスを「アミノ酸価」と呼んで食品の比較に用いられています。畑のお肉と呼ばれる大豆は90、日本人の主食である米は72に対し、私は100と8種のアミノ酸がバランスよく含まれているそうです。必須アミノ酸は体内で合成できず、食品から摂る必要があるので、その有力な候補と自負しています。
・コレステロール
私の脂肪は当然動物性、コレステロール産生の”悪玉”というイメージが強く、そこに誤解の素があると思います。
コレステロールを一定量摂取しなければ、ヒトは生きていられないことをご存知ですか。コレステロールは細胞膜再生のための原料、脂肪の消化に欠かせない胆汁酸の原料、脳神経細胞の活性化を補助する材料となるなど、生命維持に欠かせないマルチな物質です。【血清コレステロール値死亡率】の統計によれば、コレステロール値が高ければ心筋梗塞などの冠状動脈疾患にかかりやすく、低ければ癌の発症率が高くなるとのこと。ほどほどが肝心!
最近の研究によれば、従来「植物油に含まれる代表的な脂肪酸の一つ、リノール酸はコレステロール低下作用に優れている」との事実のほか、今まで敬遠されてきた動物性脂肪に含まれるある種の脂肪酸にも同等以上のコレステロール低下効果があると判明したそうです。それは実は私(牛肉)の脂肪酸組成の第1位、第2位を占めるオレイン酸・ステアリン酸だというのです。
摂りすぎは当然肥満につながる可能性が高いので、他のコレステロール分解成分を含んだ食材と併せて、適量食べることが大事です。
・鉄分
鉄分欠乏による貧血、特に女性に多いといわれていますが、皆さんは思い当たることありませんか。
お肉(牛、鶏、豚など)の中でもひときわ赤さの目立つ私、その赤さの秘密はヘム鉄の血色素にあります。化学的に難しい話は皆さんにお任せするとして。
鉄分はヒト(哨乳類全般同じことが言えるのですが)にとって、体細胞への酸素供給の際、ヘモグロビンの活性に不可欠な養分として知られています。鉄分不足が貧血につながる理由はここにあります。
私は100g当り2.2mgの成分値、鉄分の王様といわれるほうれん草の3.7mgの半分強ですが、ヒトの体内での吸収率はほうれん章の4倍も高率です。(吸収率:私20%、ほうれん草5%)
私は、自分では《プロポーション抜群の美人?》とは言えないまでも、バランスの良い食品であると自負しています。他にも生理活性物質(ペプチド)といった有効成分が私の中にあると最近の研究で明らかにされています。
私を〝なかなか〟の食品と感じてくださったあなたに、少しだけ食べ方と調理のコツをお教えします。
野菜はベストパートナー
野菜はビタミン、食物繊維など補助的栄養素食品として重要と言われますが、私との相性も抜群のパートナーです。食肉には含まれないビタミンEはもともと脂肪がないと体内に吸収できないので、Eを含む野菜・穀類と私との食べ合わせは理想的です。また、腸内環境を整え、老廃物を一掃する食物繊維を多く含む大豆、ひじき、干ししいたけやベータカロチンを豊富に含むニンジンなどもオススメの食品です。
調理法でこんなに違う
私は加熱されすぎると硬くなり、皆さんの顎・歯でかみきれなくなることがあります。私もいろいろな部位があり、それぞれ脂肪のあるなし、きめの粗さ、細かさなど特徴をもっています。そこで部位によって大まかな調理・加熱の仕方を覚えてください。
脂肪の割合の多いバラ、ロースは網か波型プレートで余分な脂肪分を落とす。または加熱する前に脂肪をできるだけきれいに取り除く。脂肪の少ないモモやカタ・ヒレはフライパン・鉄板で短時間で加熱する。特に注意することは、強火で肉の表面をできるだけ早く固めて、肉汁が流れ出るのを防ぐことです。
ステーキの失敗しない焼き方:よく熟した鉄製フライパンに私の脂肪を溶かし、煙が出るくらいになって肉を置く。片面をよく焼き固め、上の面に温まった肉汁がフツフツと湧き出しはじめたらすぐに裏返し、十秒でレア、二十秒でミディアム、三十秒以上でウェルダンの仕上がりとなります。家庭用ガスコンロは機種により火力がまちまちですが最初の一枚でまずはお試しを!
もう一つ、下ごしらえに水を使うと仕上がりがふんわり柔らかになります。私は水と相性が良く、「特に加熱すると硬くなりがちな赤身(カタ・モモなど)は、スライスや小口切りしたものを、20%はどの水(肉が100グラムなら水20ccぐらい)と下味用調味料を合わせてもみこんでから妙めると良い」と中華料理店のシェフが話していました。
そうそう、煮込むことも私を丸ごと楽しんでいただける方法です。シチュー、ポトフ、カレー、ストロガノフなど皆さんによく知られている献立は、塊り肉で下茹でしてアクとりと浮き出した脂肪をこまめにすくい取るだけで、ソースなどのからみが深くなります。
相性のよい調味料、香辛料
私の持ち味を生かしてくれる調味料は皆様よくご存知の塩、醤油。焼肉のタレのベースに醤油がよく使われています。また水分活性が他の食肉と比べ若干高めなことから、塩も風味を引き出す決め手。
よく使われる香辛料は胡椒ですが、クローブ(和名:丁子)も臭みを消し食味を増します。  お試しあれ。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。
また、どこかのスーパー、お肉屋さんでお会いしましょう。
~巨人の星~
中川 均(東高25期)
「日本一の日雇い人夫」から
ニート・フリーターを考える

今やフリーター・ニートは全国で65万から85万人と言われている。また、諸先輩のお子さんも就職を迎える世代となっており、就職のことを聞くと「やりたいことがみつからない」とのたまうニート予備軍のお子さんもかなりいるのではないでしょうか?
私は人材ビジネスに約20年間携わり、経験上言えるのが絶対にニート・フリーターにしてはいけない、ということ。
生涯年収が減るから、とか物理的な理由ではなく、人との出会いの機会を喪失するからです。社会人となり、将来、成功する人は多数の人との出会いから、そのチャンスを勝ち取っています。例えば、成功した経営者は、間違いなく、サラリーマンの数十倍の人と会い、仕事の話を通して成功の糸口を見つけています⇒豊富な人脈、それも仕事の話ができる人脈が人生の成功の鍵なのです。
フリーターでも人脈はできる、と思われる方もいるでしょう。しかしフリーター同士でビジネスの話になるでしょうか?
愚痴や社会の批判になりがちではないでしょうか?
では、息子、娘をフリーター・ニートにさせないためにどうしたらよいのか?
まず、「嫌いじやない」仕事に就かせることです。子供たちは「やりがい」という言葉を使いますが、「やりがい」は就職前にわかるものではありません、あくまでも行動した結果なのです。諸先輩も今、ようやく自分の仕事の「やりがい」や「貢献」ということを実感しているはずで、現在の仕事に就く前から「やりがい」が感じられた人は少なかったはずです。ですから、子供たちには「やりがい」の前に「好き」か「嫌いか」で仕事を選ばせることを進めます。「やりがい」論で議論をすると、答えがでません。ただ、はっきりしているのは失業者となり収入がなくなる、ということです。
そして、もっと重要なことは子供が選んだ仕事を否定しないことです。「自分の経験上、その仕事はまずいのでは?」などと、決して言わないことです。親が経験したことなど、社会の一面をほんのわずか、かいま見ただけで、その仕事をとやかく言う資格など無いのですから。
とにかく、子供が働く意志を持ち会社を選んだ時には仮に「日雇い人夫」でも、巨人の星の星飛雄馬が青雲高校の面接の時に思いを込めて(?)言ったように「自分の子は日本一の日雇い人夫、現時点で最高の仕事についている。ここから人生のチャンスを見つけようと努力を始めた」と子供を信じてあげることです。そして子供が疲れた時、自暴自棄になったときに初めて過去の経験をもとに、親としてその難局からの脱出方法を親身に相談にのってあげることです。
子供のことを考えているようにみえて、実は自分のプライドを子供に押し付けているのではないでしょうか? 子供はそんな親の下心を敏感に読み取っています。
下心を読み取られないためにはどうしたらよいか? それは親がどんな仕事であろうとも生き生きしている姿を子供たちに見せることです。子供の前で、会社の愚痴を言っていては、子供は仕事、会社に夢を感じられるはずはありません。まずは今の自分の姿が子供にどう映っているか、自分を再認識しなければ、わが子をニート・フリーターからは救い出せないかも。「日本一の日雇い人夫」、実にいい響きではないでしょうか?
建物の安全性に関する雑感
伊藤 泰志(東高25期)
昨年11月、姉歯元建築士によるマンションやホテルの耐震偽造問題が社会問題化し、2月には九州で、そして3月にはついに北海道でも同様の問題が発覚しました。
一般の方から見れば、建物の発注者、設計者(意匠、構造、設備)、工事監理者、施工元請業者、施工協力業者、販売業者、そして指導監督する行政、また民間の確認申請審査機関などの複雑な構図が炙り出され、「この業界は一体どうなっているのか」と不安を感じる方が多いと思います。偉大な諸先輩を差し置いて差し出がましいと存じますが、建築業界に身を置く者として、自らの反省も含めて雑感を書いてみました。
1 建築士及び建築に携わる人々の倫理観
建築は、専門性の高い技術者集団が良心的に建物を生産する事を前提として成り立っていたシステムで、「安全な建物」を供給しておりましたが、この方法では建物の安全性を確保できない以上、違反した場合のペナルティの強化は避けられないと思います。また、建築士も、意匠・構造・設備・施工・都市計画など専門化されており、専門分野に秀でた技術者と全体を総括するコーディネーターとがコラボレートする専攻建築士制度の充実も望まれます。
今回の問題は、構造計算書の偽造と評価方法が数種類ある事ばかりが目立ちすぎました。設計図書のチェック体制を強化する事は勿論重要な事ですが、施工中の工事監理に関しては、まだまだ不十分な事が多いと思います。設計者と同じくらい重要な分野を受け持つ工事監理者が、十分に独立した存在であるか、コストと工程ばかりに最大の関心をもつ施工管理者とステップ毎の地道なチェックを重ねて品質を造り込む事が重要と思います。
2 建築基準法や建築士法の改正
今回の改正で、建築確認・検査の厳格化、民間建築確認検査機関の業務の適正化、設計図書保存の義務付け、建築士事務所や確認審査機関の情報開示、住宅の売主などの瑕疵担保責任の履行に関する情報開示などが改正されるようです。専門誌によるアンケートでは、「今回の改正で国民からの信頼が回復できるか」との質問に半数以上が、「そうは思わない」と回答しています。行政や確認審査機関が全責任を負えるのか、設計および⊥事の期間がただ延びるだけだ、違反した場合の罰則が軽すぎる、設計報酬が低いのに設計者の責任だけが重くなる、零細住宅事業者が倒産したらどうなるのか等の問題点が出ています。場当たり的な改正で多少は良くなるが、本質的解決には、ほど遠いという事と見ている様です。
この事は、まさに今回の耐震偽造で最大の被害を蒙ったマンション居住者の不安と似たものを感じます。多額のお金を払ってやっと手に入れた住宅が、一瞬で価値が暴落し、ローンという負担だけが残った、そしてこの責任を誰が取るのか皆で押し付けあっている。
今回の改正では、責任の所在が多少は明確にはなったのでしょうが、私的財産のセーフティネットとして、どう充実させていくかが問われています。
3 イギリスで〟
日本の「建築確認」は、発注者や建築士の作成した設計図が信用されており、申請した内容に問題がない事を確認する制度であるのに対してイギリスでは、「建築承認」という制度だそうです。これは行政が責任をもって建築を許可する制度で、構造的な審査は保険会社が行い、構造専門家が委託されて審査し、構造的にグレードの高い建物には保険料が安くなるメリットがあるそうです。また工事の進捗に従い5~6回に分けて承認をとる「部分承認」という方式で、各段階で審査官が現場でできた現物をチェックするとの事です。
単純にイギリスと比べても仕方ない事かもしれませんが、建築教育も理論、実習、紛争処理などを学んで職業倫理観を植えつけられています。建築技術者は、欧米では社会的な地位が高く尊敬されている職業のひとつであり、日本ももっと議論を尽くしより良い方向に持っていく必要があります。
特に建築は、医師と同じように人命にかかわる職業であることを十分に認識して業務に当たることが何よりも必要であろうと感じます。
4 最後に
昨年は、アスベストが、また数年前にはシックハウス症候群が、また今年は東横インによる不正に改修した違反建築が社会問題化しました。
この間題も、耐震偽造問題も、最終的にはエンドユーザーの不安を取り除き、建物の安全性をいかに確保するかに尽きると思います。自らの反省も含めて、この業界に携わるひとりひとりの努力が必要と思います。

4.各種季員会・部会報告
☆☆各種季員会・部会報告☆☆
札幌突こつ会幹事長 田村 康史(東高18期)
新ゴルフ部会長に上杉光司氏就任
定年、子育て終了の方の積極的参加を

札幌突こつ会の活動に多くの人たちが参加し易くなるように、またより充実したものにとの考えから、平成17年9月の役員会において、別紙のような各種委員会、部会を提案させていただきました。幸いなことに皆様の好意的な意見を聞くことができましたが、正式な発足には至っておりません。席上、長い間ゴルフ部会会長を務められた上原弘幸氏(東6)から腰痛にて辞任の意向が伝えられ、後任には満場一致で上杉光司氏(東19)が選出されました。
現在、若手育成委員会とゴルフ部会が活動しております。平成17年10月25日(火)11名出席して各種委員会の会合が開かれ、明年5月27日(土)に第2回若手育成委員会を開催したいとの考えが小野沢潔委員長から表明されました。フレッシュな新卒者(東56)との対話が今から楽しみです。続いて12月22日(木)ゴルフ部会の記念すべき初めての忘年会が7名の出席で執り行われました。
参加者が少なくやや寂しい印象でしたが、各自の人となりが分かりそれなりに素晴しいものでした。特に平泉剛氏(東12)は在学中野球部に所属、全道大会決勝まで戦った勇士とのことで、「今後ゴルフ大会には同期数名で参加したい。」とエールを送られ、これを受けて新任の上杉ゴルフ部会長から「来年は最低2回はコンペを開催したい。」との決意が披露され、今後の部会の発展が期待されるところです。
さて伝統誇る突こつ会ですが、ライバルの他校も学生時代の絆を求めて同窓会活動が活発になってきており、私たちも一段の飛躍が必要かと考えております。特に団塊の世代(東高では東16期から東18期に相当)が定年を迎え、その700万人のエネルギーがどこへ向かうか注目されており、既に各地の旭川東高同窓会においても団塊の世代が重要な役職を担って活動中です。
長老の経験・見識と若い世代のパワーに団塊のエネルギーを加えて、具体的には札幌突こつ会結成50周年をめざして、各種委員会・部会への皆様、特に定年の方、子育て終了の方の積極的な参加をお待ち申し上げます。

突こつ会事務局 Tel 011-583-1161 Fax 011-583-1179
ホームページ開設;「札幌突こつ会」でアクセス可

[別紙]
札幌突こつ会組織表(私案)
会 長 - 最高顧問会議
副会長 - 名簿委員会
      広報委員会
      若手育成委員会
      会報編集委員会
副会長 - ゴルフ部会
      囲碁同好会
      パークゴルフ部会
      釣り同好会
      ハイキング同好会
      コーラス同好会
職場突こつ会(北海道電力、札幌市役所、
      道庁、札幌医大など)

5.母校の近況

6.連載
突兀会の人々(3)
田村康史(東高18期)
市内有名病院をたずねて

テレビで連日“白い巨塔”が放映され、大学医学部への関心が高まっています。さて白い巨塔の頂点を目指す我が突兀会はどうでしょうか。現在、東京大学医学部教授に2名、北大医学部教授3名を輩出、名門“旭中”の名に恥じない活躍をしております。
今回はそんな白い巨塔とは無関係の市内で見かける有名病院の院長を紹介させていただきます。以前でしたら、まず最初に中央区の中村脳外科病院の中村先生からでしたが、3年前に亡くなられましたので、西区の北海道大野病院理事長大野猛三(東17)先生がその名声、実力で最右翼ではないかと考え皆様にお知らせ致します。心臓血管外科分野では国内トップランクに挙げられ、若い研修医が全国から殺到して夜遅くまで真剣に研鑽を積んでおります。先生は朝日小、北都中、東高、札幌医大と進まれ、“日本一の外科医を目標に努力した。”と若い東高卒業生(東55)に訴える熱血漢です。また北海道フェンシング協会会長、ヤクルト後援会長として活躍するスポーツ愛好家でもあります。北区では大塚眼科病院の樋口真琴(東18)さんが院長として頑張っております。日新小、北都中、東高、北大といわゆる旭川のエリートコースを歩み、卒業後もNIH(米国国立公衆衛生院)に留学して世界のトップで学び、現在最先端の医療現場で後輩の育成、病院経営に余念がないようです。家庭では2人のお子さんのしっかりママでもあります。豊平区では西岡病院理事長の西澤寛俊(東15)先生が地域医療、老人医療で広く活躍され、同じ敷地内の西岡ひふ科院長の西澤慶昭(東18)君とは兄弟で仲良く頑張っておられます。
郊外に目を転じますと、北広島の道央病院理事長小柳崇(東7)先生がいらっしゃいます。ご存知のように突兀会の前会長で、地元医師会の大物でもあります。小樽では松浦正盛(東18)君が小樽循環器病院を開業、その名のとおり循環器の治療で地域に貢献しています。千歳には南田英俊(東20)君が千歳第一病院副院長として優秀な外科医として胆石にメスを振るい、囲碁でも名人クラスとのことで“石”に縁があるようです。彼は札幌医大突兀会、20期同期会の有力メンバーとして存在感のある人物でもあります。
今回はあくまでも私の見聞きした事実だけを記載しましたので物足りない印象をもたれた向きもあると思いますが、どうかご了承願います。というのは旭中、旭川東高は医学部に毎年20名から40名進学する関係で札幌市内の医療機関の少なからずの部分を突兀会メンバーが占めており、紙面の都合ですべて紹介することは不可能なことと思われます。街角でみかける突兀会の人々、弁護士の人々、市内有名病院の院長とシリーズでお送りしました。
では次回をお楽しみに。

7.平成17年度事業報告

8.おくやみ

9.トピックス
突こつ会の名前の由来
「シマレ・ガンバレ」は今も!
あの亭も!
恩師の近況
同窓生の近況

10.編集後記
固い頭(編集後記に代えて)
準備委員会報誌担当 楠 博行(東高25期)
●「最後の晩餐」今、話題の映画「ダ・ヴィンチ・コード」の文庫本を読んでいる。「最後の晩餐」は、イエスと12使徒を描いたものと思い込んでいたが、そうではないと書かれている。宗教上の議論もあり、真偽の程は断定できない。ただ、最近CGで復元された壁画を私の感性で見る限り、確かに頷ける。先入観が、固い頭の内壁に独自の「最後の晩餐」を描いていたようである。
●根室の野鳥 平成13年に根室市へ転勤となり、飼い猫と妻とともに日本最東端の地で2年を過ごした。
根室の地には、依然として大自然が保たれており、丹頂鶴、オジロワシ、オオワシなどが、人間の生活圏内に棲んでいる。
自然に触れる折角のチャンスなので、夫婦で市内への入り口にある「根室ネイチャーセンター」を訪れた。そこでは、建物の中からガラス越しに、外の木々に遊ぶ野鳥を観察できるようになっている。室内の壁には、近くにやってくる野鳥の絵(名前入り)と、センターの職員が当日の朝確認した野鳥のリストが張ってある。ガラスの向こうの木々に交代でとまる野鳥。鳥には無知な私達だが、絵とリストがある!「コゲラだね。」「違うわよ!」「…はい」などと言い合っている内に、アカゲラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、ハシブトガラなどの姿と名前が妻と私の固い頭に刻み込まれていった。
以来、運転中、歩行中、鳥の姿があれば、何という鳥か気になるようになり、手頃な鳥類図鑑を購入し調べる癖が付いてしまい、私達の楽しみの一つになった。さすが、道東、野鳥の宝庫。世界遺産!
●札幌に戻って 2年後、転勤で再び札幌に戻り、自宅の窓から外を見た。白と黒の鳥、ハクセキレイだ!毎日、自宅のベランダに来ていたのか?公園に行けば、アオジ、コガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、ヤマガラ、ハシブトガラなど多くの野鳥がいる!
さすがに、根室でよく見かけたオオワシやオジロワシを札幌で見ることはできないが、中島公園には赤ゲラもいるし、春には西区にキレンジャクの大群もやってくる。根室では全く見かけなかったヒヨドリが、キーキー鳴きながら、梅や桜の傍をつがいで飛び周っている。今は、通勤途中や休日の散歩の際、様々な野鳥が目に入ってくる。根室に赴く前は、固い頭のせいで、同じくそこにあったその姿や声が、目にも耳にも入っていなかった。
●準備委員になって 「札幌突こつ会」~出身高校の同窓会。正直なところ、昨年まで、気にも留めていなかった。
閉鎖的な職場にあり、外部との付き合いも難しく、高校の同級生との付き合いが、仕事の色々なしがらみ等のない、心休まる場であった。今まで、この固い頭は大切な場を忘れていたようである。
幸いにして?準備委貝となり、30年ぶりの同期や初めてお会いする先輩と接することができ、大変嬉しく思っている。

編集に当たり、突然の原稿依頼に対して、お忙しい中、貴重な文章をいただいた先輩始め同窓生の皆様に、心からお礼を申しあげます。本当に、ありがとうございました。

平成17年発行 会報第25号

<第25号の内容>

1.あいさつ
変わり行く時代の流れ
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
1940年生まれの私には、21世紀に入り時代の変わり様に最近つくづくと感じる昨今であります。私共が学生時代は「世の中に出たときにソロバンが出来ないと役に立たず」と言われソロバンを勉強して、世の中に出た時は手動計算機に変わっており、それを勉強したら、今度は電子計算機になりました。
 又「字が汚いと出世出来ず」と習字を習って世の中に出た途端にワープロ、パソコンになって来て、「コンピューターを操作出来ずは管理職にあらず」と言われ現在に来ております。
 日本の経済も大学を出た時代はまさに高度成長時代で“消費とは美徳なり”“貧乏人は麦を食え”と経済成長率も二桁時代でした。
 1960年代半ば住宅産業、家電産業等と売り手市場から買い手市場に変わったとき、日本はアメリカ及び世界から学ぶことは何もなくなったと言って「ジャパン アズ ナンバーワン」と賞賛していたのでした。
 しかし、あれから30数年でバブルは崩壊して世の中は「売り手市場から買い手市場に」移行していったのです。

 日本経済の歴史を紐解けば、戦後しばらくの間、日本には配給制度というのがあって極端に物資が不足していたから、米も配給でしか買う事が出来なかったし、衣料品なども、好きなときに気に入った物を買うなどという時代でなく、必要と否とかかわらず手に入れておこうという時代だったのである。
 戦争末期のころ生まれた人が、配給で手に入れたコートがうれしくて、帰り道々何回も袋の中を確認しては、母親と顔を見合わせたことがかすかに覚えているというくらいだから、それが、戦後かなり続いた状態だったという事だろう。
 戦争というのは人々の心に多くの影を落とすものであり、これらの一連の物資不足は、人々にさもしい根性を植え付けるように思います。

 経済大国と言われるようになってからも、消費者が売り手側の意図に踊らされた時代は長かった。当時、デパートやメーカーがよくやったのは、景品つき商品である。
 たいした価格でもないような安っぽい日用品に引かれて、どうせ買うなら、景品つきを購入してしまうのである。結局は使い物にならずに引き出しのすみに放り込まれるか、すぐに壊れてしまうのがオチなのに、どうしてもおまけつきに手が出てしまった体験は誰にでもあるのではなかろうか。
 広告もそうである。限定何個二割引きなどと言った広告に乗せられたり、広告に乗せられているものがいいような気がして、それを目当てに朝早くから並んだりしたものです。

 スカートの長さもメーカーの言うがままだった。マキシが流行すれば、日本全国、猫も杓子もマキシ、今年はミニだと言われれば老いも若きも大股丸出しのミニをはいていた。
 流行色もメーカーが決めた色にみんな従った。価格も品質も決めるのは生産者であり、売り手側だったのである。

 その様な時代から「売り手市場」から「買い手市場」へと変化が表れはじめたのは1970年頃と記憶しております。
 生産者側が膨らみ、物が豊かになって初めて消費者が自分の目で商品を選ぶようになったのです。60年代初めにはスーパーでチラシを出して広告商品を載せれば全部売り切れていたのが、そうはいかなくなったのだ。大体二時間ぐらいで売り切れて、客から、チラシに載っているのに何故ないのかという苦情が殺到していたのが、事情が変わり、売れ残りが出始めたのである。

 経済そのものは伸びていて、その上にあぐらをかいて大量生産の体質のメーカーが多く有ったが、あっと気が付くと「買わせる時代から買う時代」「選ばせる時代から選ぶ時代」となっていったのであると思います。二十一世紀のキーワードは「安心、安全、健康、環境」と言われ、その上に「信頼」の二文字が一番大切なことだと思います。
 昨今、道内はもとより全国で安全と信頼を無くして大手のメーカー及び商社が姿を消しているのはご記憶に新しい出来事であります。目まぐるしい時代の流れですが、我々同窓生の皆様は我が母校の標語である「シマレガンバレ」の精神を忘れることなく頑張りましょう。末筆になりましたが、本日ご出席いただきましたご来賓の方々及び恩師の先生方々のご健康とご多幸をご祈念申し上げます。
ご挨拶
旭川東高等学校同窓会会長 松野 和彦(東高16期)
近 況 報 告
旭川東高等学校校長 濱本 武司
まず、この春の嬉しい出来事をお知らせします。
3月の卒業式で、卒業生総数が3万人を越えました。
また、男子バレー部は昨年に引き続き春高バレー全国大会に出場し、鹿児島商業高校と対戦、強豪相手に大健闘しました。
惜しくも敗れはしましたが、この試合が全道にテレビ放映され、北海道新聞はその健闘を大きく取り上げてくれました。この試合に、300名を越える関東在住の同窓の皆さんが、東京の代々木体育館に駆け付け、熱心に後輩を応援してくれました。
ほんとうに感謝・感激でした。
さらに、この春の卒業生の約50%が、国公立大学に合格しました。ここ20年間では最高の合格率とか、まさに快挙でした。
嬉しいニュースばかり報告させていただきましたが、今学校が抱えている課題もお知らせします。それは、学級減の問題です。
10年前の旭東は、各学年9学級でした。しかし、現在は7学級に減っております。これは旭川市内の中学生卒業者数の減少に伴い、市内の各公立高等学校が入学定員を均等に減らされてしまったためです。
しかし、これ以上学級数が減ると、今まで本校が果たして来た役割が十分果たせなくなります。
本校では全人教育を目指し、生徒に「シマレ、ガンバレ」の精神で、勉学だけでなく学校行事、部活動にも全力投球させるなど、教職員が日夜フル回転してバランスの良い教育を実践し、成果を上げてきました。
学級数が減らされていくということは、生徒数と教職員数が減るということになります。そうしますと、本校では次のような状況になることが予測されます。
・個々の生徒の進路希望に合わせた教育課程編成が厳しくなる。
・国公立大学医学部など最近の受験科目数の増加に十分対応出来なくなる。
・行事の内容変更や部活動の部数の減少で学校の魅力と活気がなくなる。
昨年の7月、旭川市で「旭川市内公立高等学校配置の在り方検討懇話会」を設置し、旭川市内公立高等学校の配置の在り方について検討してきました。会議は10回行われ、この3月に、今後の方向性についての答申が出されました。
その答申の中で、市内公立高等学校普通科に関連のある箇所を一部紹介しますと、
(1)教育効果を考えると、市内公立高等学校の全日制普通科の規模は、1学年6学級以上が望ましい。
(2)学校の小規模化による教育の質の低下を防ぐためにも、統廃合によって6学級以上を維持することもやむを得ないものと考える。
(3)大都市圏などとの学力格差を生じないような競争力の高い高校づくりが必要との認識から、進学の拠点校づくりが必要と考えられる。
道教委でも、昨年の12月に「高校教育推進検討会議」を設置し、全道的視野で高校教育のあるべき姿やそれを踏まえた高校配置の在り方について、現在検討しています。
旭川市民の皆さんは、道北の進学拠点校としての旭東の果たしてきた役割と実績を高く評価しています。しかし、一部の方々の「なぜ旭東だけを優遇……」という声も聞こえてきていることも事実です。
文部科学省は、国立大学を行政法人化し、競争原理を取り入れるなどし、実績を重んじた予算配分を行うようになってきています。
道教委も、生徒の能力・適正や興味・関心、進路希望等に応じた多様な学習が可能となるよう、学校選択幅を広げるため、今年度から通学区域を拡大しました。
ある意味では、各高等学校にとって自由競争の厳しい時代に入ったわけであります。
東京同窓会に参加して
札幌突こつ会幹事長 田村 康史(東高18期)
昨年7月10日(土)憧れの東京同窓会に参加することが出来ました。木幡会長の代理として、堀裕明(東19期)副幹事長を同行しての楽しい旅のはずでしたが霧の発生で30分遅刻、関係者にご迷惑をお掛けしてしまいました。会場の中野サンプラザに着くと、当番の26期が礼儀正しく待っていて場内に案内されると既に挨拶は終わっていたようでひと安心。というのも当番長の森内君から挨拶を依頼されていたからです。歓談の時間が過ぎ、いよいよ26期当番の企画による「旭川レアものグッズ大オークション」です。東高の名いりのTシャツ、タオル、旭川ラーメン、記念硬貨(10万相当)などが次々と落札され、残りは抽選で当選した方があみだくじを引き無事終了。校歌斉唱となり、やや肥満気味の元応援団員による応援歌が披露され、文字通り'疲労'で足元が怪しげなのは同世代として笑えぬところですが、その愛校心は見上げたものでした。万歳三唱、すると司会から「ここで札幌突兀会の幹事長から挨拶があります。」と告げられたのです。慌てて登壇したのは良いのですがメモが見当たらなく、「我が母校東高は、東京の名門麻生、開成のやや下の学校と思う。ただし外に出たらあまり云わない方が良い。」と笑いを取るのが精一杯でした。
東京同窓会は昭和38年東京支部として発足、笹谷貴義氏(旭中10期)前田義徳氏(旭中16期)太田剛氏(旭中19期)勝田正之氏(旭中23期)八木祐四郎氏(旭中40.41期)白倉伸也氏(東1期)と蒼々たる方が会長を努められ、旭川東高同窓会では最大規模の支部で会員数3459名を擁します。このたび団塊の世代としての手腕が期待されて、弁護士の安井規雄氏(東17期)が次期会長に指名されました。ご存知のように旭中26期安井吉典氏(元衆院副議長)を父に、祖父も上川中2期という東高一家です。
総会終了後、会長ほか高尾榮二事務局長(東1期)、木幡功(旭中43期)石神絢夫(東5期)両副会長に招かれ、濱本校長、仲山旭川本部同窓会会長(東10期)と同席する機会を与えられました。ご存知のように木幡副会長は札幌突兀会の木幡会長のお兄さんで、昨年の第44回札幌突こつ会総会にご出席賜り、やさしい笑顔で私たちを激励して下さいました。楽しい席にあっっても、今後の同窓会のあり方を真剣に検討している70歳過ぎた先輩の姿を拝見、私たちの鏡としなければと思いつつ学ぶことの多い旅でした。

2.各期短信
元気で長生きして人生を楽しもう
桃井  勲(東高12期)
私たち東高12期(昭和37年卒業)は、現在札幌に近郊を含めて107名おり、(男56名、女51名)元気に活躍しております。
高校時代、自分が還暦を迎えることになるとは、想像だにしておりませんでしたが、昨年で全員還暦を迎え、爺、婆、になりました。
男性の多くは、ほとんど第一回目の職場を終え、第二、第三の職場で活躍しており、又、何名かは悠々自適の生活を送っております。
女性陣も、主人、子供、孫から解放され、自分の生き方に集中できる年齢になりました。
私たち同期の集まりは、6月の突こつ会に出来るだけ参加し、又年1回の忘年会を行なっております。此の忘年会は皆楽しみにしており、40名程度の参加があります。青春時代に戻り、懐かしい思い出を語り、また現在の心境今後の人生の過ごし方等、和気講義のひと時を楽しんでおります。
2次会のカラオケにも、ほぼ全員が参加し、歌合戦になったりします。
ゴルフをする連中は、年1回のコンペを計画し、旭川の同期の連中との対抗戦も実施しております。体はついていかないけれど、気持ちだけ若返ってクラブを振り回し健康を保っています。
札幌駅周辺に勤務している連中は、時々、電話し昼飯を食べたり、夏には暑気払いと称しビールを飲んだり、麻雀等をやってます。
これからも、同期の全員が元気で長生きし、人生を楽しく生きていきましょう。元気な内に楽しかった修学旅行をもう1度企画しますので、参加下さい。
旭川東高校9期生卒業45周年記念旅行
上ヶ島 桂一(東高9期)
昭和34年3月卒業の我々9期生は既に還暦を過ぎてしまった。
これ迄も卒業以来旭川や札幌で同期会を開いて旧交を温めてきた。そして節目毎には同期会を兼ねた旅行を実施し、前回は5年前に卒業40周年を層雲峡への1泊旅行で祝った。そして45周年は札幌在住の世話役が中心となって2年程前からアンケートにより旅行内容の検討や参加予定者の把握を行ってきた。その結果定山渓・小樽への1泊2日旅行を行う事になった。平成16年9月24日(金)12時30分に旭川東高同窓会館前を出発した貸切バスは、JR札幌駅で札幌在住の同期生を乗せて一路定山渓へと向かった。久しぶりに見る顔やビールで赤くなった顔、バスの中は既にクラス会モードに盛り上がっている。定山渓草月グランドホテルへ着いた我々は、入浴後集合写真をとる為に懇親会会場へと集まってきた。
旭川・札幌他道内在住者に加えて遠く東京、川崎、千葉、石川県からも参加した総勢43名(男性27名女性16名)が抽選で席に着いた。18時から9期会和田会長、在札世話役佐々木代表の挨拶、札幌突こつ会小幡会長の音頭で元気よく乾杯して開宴となった。最初に1人づつ近況報告等のスピーチを行った。卒業後45年たって皆それぞれに歴史があり元気な人、苦労したような人、若づくりや年相応の人、大先輩ではないかと思われそうな人、お酒もすすんでスピーチは盛り上がっていった。2次会でも飲んで騒いで語り合い笑い声が夜中迄続いた。酔いも手伝って高校時代にタイムスリップしたような感覚になったのは私一人ではなかったように思えた。翌25日(土)は小樽観光へと出発した。運河の街小樽では北一ガラス館やオルゴール堂などを各自動散策しながら見学。昼食は庄坊番屋で特製生ちらしを堪能した。昼食で飲んだビールもさめないうちに田中酒造を見学した。日本酒の醸造過程を見ながら試飲を重ね、顔も心もホンノリ桜色。
お土産を買った後楽しい旅行の帰路についた。今回の旅行に関して周到な準備や連絡を一手に引き受けてくれた(毎度の事ではあるが)旭川事務局の糸田氏には心から感謝したい。卒業50周年行事が今から楽しみである。
栄天会よ、永遠に
田村 康史(東高18期)
私たち札幌18期は、恩師長谷川健一先生(ハセケン)から栄天会と名前を頂き活発に活動してきました。しかし今年はいつまで待っても栄天会の連絡がありません。しびれを切らした有志3名が11月6日(土)札幌医大近くのそば屋に結集、そばも食べずに焼酎ばかり呑み、これが本当のそば焼酎などと軽口を叩きながら11月22日(月)開催と決め、準備開始。時間はなくとも、そこは気心の知れた仲間、あっという間に全員に連絡され当日を迎えました。
異例ずくめの6回目の栄天会も、当日蓋を開けると23名の参加を数え、中でも初めて顔を見せた同期が4名いて注目を集めました。55歳ともなると、話題も子供の結婚のことに。「私の娘2人売れ残っています」、「私にも息子1人います」とセリ市のような活況を呈してきたところで、「実は俺も独身なんだけど」と発言すると、どっと笑いが飛び出し、記念写真に納まり2次会へ。3次会まで頑張った人もいるようでお疲れ様でした。
団塊の世代の18期もご他聞にもれず、リストラの嵐の中、生き抜いています。定年が間近だったり、病気にかかったりと大変な仲間もいます。今回、栄天会の幹事も実は体調を崩し、佐原君が幹事代行を務め大事に至らずに済みました。元来、競争の激しい18期、倒れても倒れても誰かが松明を繋ぎ栄天会の火を守り通すとの強い意気込みが感じられた素晴しい同期会でした。
最後に女子の連絡を担当された桑原さん、山脇さんに感謝申し上げます。

3.投稿
精神科医のつぶやき
内海久美子(東高24期)
2005年シマレガンバレ ファイターズ!
横幕 義信(東高16期)
「夢と感動」を与えることは人々にとって、なんと素晴らしいことではないだろうか
記憶にまだ新鮮に残っているであろう北海道移転元年の2004年ファイターズは目標に掲げていたAクラス入りを果たした。
特に9月に入ってからの攻勢は日を見張る超パワーが爆発した。
「フアンから伝わる大きな歓声は、自分たちにこれ以上ない力を与えてくれた」と。キャプテン小笠原は言う。即ち、グランドとスタンドの一体感を強調したのである。
ここに我々が選手と一体となって熟き応援する視点がある。
チーム成績の上昇とともに、フアンの応援心理に火がつく。
そしてヒルマン監督が興奮して言う。「私が野球を始めて以来、一番心に残ったゲーム」となった。それはストライキ直後のダイエー(現ソフトバンク)戦(9月20、21日)。絶対に負けられない本拠地最終2連戦であった。ファイターズは神懸り的なゲームを演じた。SHINJOの"幻の満塁"サヨナラ弾などで、連日の劇的な逆転勝利であった。思い出しただけでも背筋がゾクゾクなるように記憶は明確だ。
この神懸り的なゲームを見つめ後押ししたのは、ドームを埋め尽くした熱烈なフアンの大声援であることを忘れてはならない。
さて、2年目となる2005年もフアンの大声援であることであることを受けて、ファイターズ戦士は立ち上がった。ドーム開幕戦!オリックス3連戦(4月1,2,3日)3日に北区応援隊は大型バス2台の100余名を連れてドームに向かった。私の恩師手塚要助先生(元旭川東高校長)夫妻が初めてのドーム見学とプロ野球観戦となり、大変喜ばれていた(5対1でファイターズが勝った)
ともあれ、大きな力となる地元の大応援はかかせない源動力だ。
昨シーズンが3位ならば、今年狙うはもちろん2位、そして優勝だ。ヒルマン監督は外人監督として初めてlつのチーム3年連続指揮を執る。「フアンの機運も高まってきているのを感じているし、優勝を目指します。見る人を興奮させていきますよ」と。
来日した1月24日、新千歳空港に降り立った瞬間に「優勝」を明言した。
昨年から導入されたプレーオフに、今季からはセリーグとの「交流試合」(5,6月)を36試合戦う。面白い展開が予想される。
力と力の勝負が主流のパとより細かい野球を取り入れるセとのぶつかり合いは、覇権を狙う上で重要なウェートをもってくることは間違いない。
「去年は北海道移転元年。自分たちも心機一転という気持ちが強かったし、多くのファンの後押しが実力以上のパワーを生み出させてくれた。球界が揺れ動いた中で自分たちはより集中して野球ができたことも大きかった。移転したl年目よりも、2年日の今年が一番重要になると思う。去年と同じでは絶対にダメだし、より成長していかなければ、痛い目に遭うと思う」とある選手は言う。
真価が問われる2年目。2年連続プレーオフ進出は当然狙うところだ。
その熱き戦いを本拠地ドームでファンと一体となって戦ってこそ強いファイターズの誕生があり、第一歩が始まると思う。
シマレガンバレノファイターズ
チャシコツ跡の傍らに石を疎な供える
山谷 圭司(東高24期)

4.母校の近況 旭川東高等学校は今
母校の近況 旭川東高校は今
同窓会事務局 水野 雅文(東高31期)
本校生徒は「シマレ、ガンバレ」を合い言葉に文武両道を目指して学校生活を送っています。その結果、進路実績はもちろん、部活動でも昨年度は陸上部、テニス部女子、音楽部など6つの部・同好会が全国大会出場を果たすなど優秀な成績を挙げました。
特に男子バレーボール部は、「春高バレー」に2年連続で出場するという快挙を成し遂げました。

5.先生、お変わりありませんか
先生、お変わりありませんか
田村康史(東高18期)
昭和40年当時の恩師に感謝の気持ちを込めて

最近、卒業式で「仰げば尊し」が歌われなくなったと聞きました。複雑な気分で往きつけのスナックで呑んでいると、何とカラオケの曲にあるというではありませんか。客が居ないのを良いことに一人で歌ってみると何故か突然東高の恩師を思い出しました。少し酔っていますのであくまでも私の自分勝手なお話として、名前の出た先生方には笑って読み流して戴ければ幸いです。

《クラス担任》
昭和40年入学の私は1年1組に配属され、担任は五十嵐弘先生でした。33歳の先生は古文乙Iの担当で、早稲田大学の出身(後に旭中43期、旭高2期と知る)らしく自慢は巨人軍広岡選手とクラスメイトとのこと。当時旭川市長と一字違いだと冗談を云いながら、巨人が負けると機嫌が悪くそんな日は叱られないように注意したものです。「高校時代に文学書を読まないと大学へ進んでから恥をかくぞ」といわれ、古今東西の良書に親しみ広い世界観と深い人生観を持つように指導されました。同じクラスの宮下君と毎日市立図書館に通い1年間だけですが日本文学を150冊ばかり乱読したものです。先生は翌昭和41年札幌西高へ転任され、昨年旭川の同窓会で40年ぶりに再会致しました。すっかり額は上がっていましたが昔と変らず明るい表情で「そんなこと言ったかな」と笑いながら、札幌北高の校長も歴任されたそうで私に現状に甘んじることなく頑張れと激励されているようでした
2年に進級、私は8組で担任は小阪博先生。ニックネームは'ピノキオ'。後に旭中1年の時、自転車で大怪我をして留年され旭中42期で卒業したと知り、足の不自由なことを取り上げる悪童だったと反省しています。英語を3年間担当され、必ずコピーを配布して丁寧に解説されるのですが、私は居眠りがひどく(後年脳波でナルコレプシーと判明するが、当時は気合が足りないと考えていた)先生にお願いして一番前の席に固定してもらったり、授業中必ず1回当てていただき、どこか分からなく級友に笑われると10分くらい眼が覚める作戦をたてたりしたものです。またスランプに堕ち13日間無断欠席した時もじっと立ち直るのを見守る先生でした。ありがとうございました。
楽しい思い出として旭川の姉妹都市ブルーミントンからの交換留学生マーク・ミラー君を修学旅行で同行して背中を流してあげたこと、門限遅刻の生徒の帰りを夜中まで先生と待ってその間いろいろお話させていただいたこと。悲しいこととして級友が病気で亡くなり本願寺の法要に先生と副級長の稲井邦子さん(彼女も44歳で死去)と3人でタクシーで駆けつけたことでした。
一昨年の開校百周年式典で「田村さん」と後ろから呼び止められ、振り向いて先生のお顔を見た瞬間、高校時代の記憶が走馬灯のように甦りました。
3年は引き続き8組でした。他の組の成績上位者2名が送り込まれ引き締まった雰囲気となりました。担任もこれまで習ったことのない薄孝三先生。豪快な性格で親しみを覚え始めた7月、急遽英語研修の米国留学が決まりベテランの野上好彦先生に担任が交代となりました。先生は3年間英語を担当されていた関係で違和感はなく、当時50歳過ぎで旭中27期の大先輩でもありました。入学まもない頃、世間では貧しくて大学へ行けなかったというが、そんなことは嘘で学力が無いだけだ。昔の先輩は市内の篤志家に立身出世を誓って援助を仰ぎ進学したものだ。旭中16期の前田義徳氏のエピソードを紹介、東京外語では人気の英米語ではなくイタリア語を受験したことが今日の出世(NHK会長)の基となったといわれ、選択の重要さを強調されました。全体に戦前の話が多く、昔の優等生は2年修了で仙台陸軍幼年学校に進学したが、私は身体が弱く芸大に進んだ。しかし諸君の勉強程度なら何でもこなせるといわれ、これまで音楽、数学、美術そして英語を担当してきたと得意そうでした。巧みな話術に魅せられ早速「新新英文解釈」を購入、早稲田式英文の解析法を学び、生きた英語を学ぶには同じ洋画を3回観なさい等と印象深い授業でした。
私の場合、3年間担任の先生は不思議なことに全て母校出身者で、非常に恵まれた高校生活だったように思います。評議員会の一員として1年生の9月から半年間生徒会監査委員会で活動させていただき、東17期の脇坂先輩と全てのサークルを視察したり、紅白の幕を借りるため西高、北高を訪問、校長室で挨拶したことなども今となっては楽しい思い出となりました。

《各教科担当》
現代国語と漢文は旭川商業から転任してきたばかりの三宅仁先生。先生は40歳位で、姿勢も良く、三沢航空隊で終戦を迎え当時のことをよく話されました。漢文は初めて学ぶ分野で「昔の学生は返り点なしの白文で読解出来た。」と説教されながら、漢詩に興味を持ったものです。バトミントン部の顧問もなされていて、女子の全国大会(鹿児島)出場が嬉しそうでした。現在、札幌南区石山連合町内会副会長を務めお元気そうで何よりです。
2年、3年の現代国語は佐藤喜一先生。旭中22期の60歳位の紳士然とし人物で「第1回北海道新聞文学賞」を受賞しただけの風格ある講義でした。聞くところによると、ご専門はエロ文学で男子クラスでは猥談で人気があるようでしたが、私の8組は女子が7名いるので残念でした。
音楽、美術、書道、工作は選択科目で、私は工作を選択しました。角正太郎先生が担当され、60歳近くの老教師で評価は全員70点らしく、のんびりガラス細工に取り組んだことが思い出されます。
地理の豊田実大先生は40歳位でやや小柄で髪も薄くなっていたように思います。初めての授業で「敏音知」、「松音知」という地名の読み方を聞かれ、私の出身の近くなので何も考えずピンネシリ、マツネシリと簡単に答えてしまったのです。今から思うと、先生は読み方が分からないと予測して授業の準備をしていたようで失礼なことをしてしまいました。学究肌の先生は、後年「旭川の川」という本を著されています。
2年になると世界史が始まり、担当は中村忠志先生。40歳位。メガネが似合い、髪はほとんどなくアニメに登場するキャラクターみたいでした。1学期中間考査で84点だったところ、職員室に呼ばれ「私を馬鹿にしているのか」と一喝され、それ以降90点以上になるように気を遣いました。西洋史が専門みたいでギリシャ、ローマの歴史に重点が置かれ、タキツス、プルタークなどが活き活きと紹介され、その深い教養から展開される講義は就いていくのが精一杯でしたが、その重要性は今ようやく理解出来るようになりました。
倫理社会は日暮台雄先生。かなりのご年配でよく眼底出血で体調維持に苦労されたようです。東大出身、元満州帝国高官らしく「世界中の女はおれの恋人だという気概を持って、堂々と胸を張って歩け」と覇気の無い我々をよく励まされたのですが、教科書はわずか30ページで終了し閉口しました。
3年はいよいよ日本史でした。担当は糸田敏光先生。一番若い先生(25歳)で熱心に授業に取り組まれていました。苦学して慶応を卒業され、同窓会事務局長を永く勤められ札幌突兀会の木幡会長と同期の東9期です。受験科目で選択しなかったため不勉強で、もう少し成績を良くしておけばと悔やまれます。
政治・経済という新しい科目は転任間もない立野茂先生。真摯な授業態度で結構ファンがいたように思われます。私もその一人でしたが。
生物は川本豊先生。やはり60歳過ぎの老教師で、氷点下20度になると「この教室の空気は澱んでいる。」と申され窓を開けさせられました。東京の名門開成高校はぼろ校舎で窓ガラスがないそうで、それに倣ったのかと思われますが先生は2月初めに殉職されその真偽は不明です。とにかく授業は中止になりホットしたものです。
2年から学ぶ化学は、山岳部で有名な速見潔先生の担当でした。50歳位と思われ、授業は無駄なく分かりやすく楽しみでした。ある日授業前の実験室を覗くとビーカーに緑青色のゼリー状物質があり、軽い気持ちでかき混ぜていると先生に見つかり「何をしているんだ」と聞かれ「きれいだなと思い少し混ぜ合わせました」というと「困ったやつだな」と叱られ廊下に立たされました。ノモンハン戦争で片腕を失い、捕虜収容所ではミカン箱と水銀でカメラを作ったそうで科学の理論を学ぶ重要性を説かれ、今でもそのときの写真を大切に保管していると誇らしげでした。永らく大雪山岳会理事長を務められ、さらに宮家との付き合いもあり障害者スキー協会の重鎮として活躍されたようで、私の所属するライオンズクラブでは速水先生は今でも尊敬され、私まで先生の教え子として一目置かれています。
物理は斉藤弘道先生。35歳位で、理路整然と古典力学を教えられたのですがなかなか理解できませんでした。18期同期会でお会い時も、やはり物理学者らしく'楽に呼吸できる道具'を持参され説明されていました。
数学は長谷川健一先生。圧倒的に人気実力ナンバーワンでした。26歳と若く角刈りで背が高く下駄ばきで自転車で登校されていました。授業内容ははっきりと記憶にありませんが、居眠りをしてチョークをぶつけられたことがあり同期会でお会いした時に改めてお詫びしたところです。先生は札幌18期をeighteen から「栄天会」と即興で命名され、昔と変らず頼もしいかぎりです。
同じ数学でも森安克利先生は物静かで対象的でした。内向的な私には向いていたのいたのかもしれませんが、数学Ⅰ、ⅡBはとても難解で苦労しました。
体育教官は職員室が別で、数人の先生が担当されたと記憶しています。横山武士先生は一際若く人気があり、18期同期会に出席して下さり恐縮しています。1年生は週4時間、2年生週3時間、3年生週2時間と授業があり、夏はタッチフットボール、野球に汗を流し、冬は寒風のなかサッカーの雪踏みに精を出したものです。小話みたいですが「北高はスキー、西高はスケートなのに東高はなぜ冬サッカー」と聞くと「東高は貧乏だから用具のいらない種目なんだ」と、よく分からない説明を受けました。剣道、柔道が正課のため、特に柔道着は先輩の汗と血が染み付いていて適当なものを選ぶのが大変でした。そんな話を昨年の東4期卒後50年のお祝いで披露したところ、東4期が柔道全道大会準優勝と知らされ伝統の重みを身体で感じた次第でした。
昭和40年当時の先生を想いつくままに書いてみました。皆さんも私以上に多くの素晴しい先生との思い出があることと存じます。卒業式の季節になりましたが、恩師を話題にしてお酒をお飲むのは如何ですか。

6.集団投稿 最強の弁護士軍団登場
札幌弁護士会の面々
岩本 勝彦(東高18期)
近況報告
越後 雅裕(東高23期)
これは天職!家事調停官1年生
内田 信也(東高23期)
最近の話題
開本 英幸(東高40期)
弁護士3年生
万字 香苗(東高47期)

7.平成16年度事業報告

8.おくやみ

9.編集後記に代えて
当番長 藤井一郎(東高24期)

平成16年発行 会報第24号

<第24号の内容>

1.あいさつ
「シマレガンバレ」 「質実剛健」の精神を!!
札幌突こつ会会長 木幡敏也(東高9期)
近況報告
旭川東高等学校同窓会会長 仲山昭義(東高10期)
創立百周年をこえて
東京同窓会会長 白倉伸也(東高1期)
旭東近況報告
旭川東高等学校校長 濱本武司

2.百年記念式典に参加して
田村康史(東高18期)
平成15年10月4日(土)朝8時特急スーパーホワイトアロー3号には、札幌突こつ会の木幡会長(東9期)、長瀬副会長(東11期)、鉄川顧問(東5期)の姿が見られた。9時20分旭川駅に着き、タクシーに乗り込む。秋晴れの快晴の空の下、正面玄関には開校百周年記念式典の立派な看板が掲げられ、酒井会計担当(東18期)が玄関前の駐車場で待っていた。受付の女子生徒の笑顔に我々の緊張も和らげられる。控えの図書室には既に多くの同窓生であふれ、知り合いの方たちと挨拶するうちに時間となり会場へ。

一同整列したところで、吹奏楽部によるファンファーレとともに開会。司会は2人の放送部員。若さあふれる開会のことばに続き同窓会物故者に黙祷。校長先生、大橋協賛会会長の挨拶を聞き、来賓の教育委員会委員長から祝辞を頂く。特にやや老化のみられた会長は1月に亡くなられており、今から考えると我々に遺言のような気持ちだったように思われる。東高の教育発展に尽力された方々に表彰状が授与され、受賞者を代表して、第20代校長藤井茂男先生(旭中38期)が先輩である大橋会長(旭中37期)から授与されることは大変光栄と話されたのが印象的だった。祝電披露の後、生徒代表が未来へ向けて力強く挨拶、最後に全員で校歌を斉唱し、約1時間で式典は無事終了した。

10分間の休憩の後、記念演奏会が開催された。司会の水野雅文先生(東31期)から演奏者3名、川上昌裕氏(東34期)佐藤珠実さん(東41期)友情出演の大野明子さんの紹介があり、ピアノ、フルートによる格調高い音色に感動しつつ演奏を堪能した。音楽の素養がない私にとって1時間20分にわたる演奏会は、この百年を振り返る時間を恩師から与えられたようにも思われた。明治36年、日本最北の恵まれない少年にも最高の教育を受けさせたいとの教育家の情熱は、野球では巨人軍スタルヒン投手(旭中30期相当)、軍人では空の軍神と称えられた加藤健夫隼戦闘隊長(旭中14期)、学業では海軍兵学校全国トップで合格した栃木幹正氏(旭中28期)、マスコミでは前田義徳NHK会長(旭中16期)、スポーツでは八木祐四郎JOC会長(旭中40・41期)と多くの逸材を戦前、戦後と間断なく世に送り出し、いつも道北の少年に夢を与えたことは驚くばかりで、改めて母校に感謝せずにはいられない気持ちとなった。シマレガンバレが出来て70年。いまの若い世代にも脈々と受け継がれていることは演奏会が教えてくれたような気がする。

興奮した頭を冷やそうと、同期の酒井君の車で食事に。やはりラーメン。昔風のしょう油味に納得しながら、式典の印象など遠慮なく話す。来賓に旭川市長、道知事が来ないのはなぜ。行灯行列もなく、市民の祝賀ムードが見られないとか、基調報告がないとか、床屋談義ならぬラーメン屋談義となった。

午後2時から旭川グランドホテルにて祝賀会。430名参加しての豪華な会合に驚かされる。 同窓会の席を見ると、東京から20名以上出席していて、白倉会長(東1期)の得意満面な笑み。確か同窓会は10名以内と指示されたはずなのだが、新米幹事長の至らなさなのか、猛省。札幌突こつ会は結局7名の出席で、東北突こつ会5名と同席となり、お互いに自己紹介する。会長の館山正一氏(旭中43期、旭高2期)は終身会長らしく、青森、秋田のメンバーをまとめ貫禄一杯で、和気あいあいの記念撮影となる(写真)。

激動の明治、大正、昭和を経て、平成の今を生きるわが母校の開校百年記念式典に参加させていただき、伝統の重みと同窓の絆を感じた充実した一日であった。

3.こんにちは、原 一平さん
札幌突こつ会事務局
あれは4年前のことでした。東高出身の芸能人がいることを知ったのは。その名は原一平さん(本名日下部 衛、東6期)。と言っても普通の人には、あのフーテンの寅さんの物まねで有名と説明すれば分かりいいと思いますね。そして昨年7月札幌でお会いすることができました(写真参照)。

ではディナーショウーの様子から。おなじみの寅さんのテーマソングで舞台に登場。渥美清との出会いから始まり、10月7日命日で柴又駅には立派な銅像が建立されていて、一口千円で募金を募り2千万円かけて、高さ180cmで全部銅製とのこと。寅さんの実際の身長は174cmと説明、柴又帝釈天の名物は草団子と猿。それは帝釈天の使いがお猿さんのためで、犬は持ち込み禁止などと楽しく話される。息子さんが歯科医をなさっていて、私も司会で同じと笑わせたり、昔は「親孝行したいのに親はなし」、今は「親孝行するもしないも金次第」と爆笑をさそう。。

さていよいよものまねの披露となり、最初は、ディック・ミネの「人生の並木道」。さすが年季が入っていて大きな拍手がわきました。藤島健夫の「法善寺横町」、田端義雄の「浜千鳥」、青木光一、チータ(水前寺清子)と素晴らしい歌声が続き、サラリーマン川柳で笑わせたのち、「中央の席に私の旭川東高校の同級生が来ています」と同期を紹介。上原弘幸氏、川瀬節也氏、久保晴宣氏、堀井清氏、稲田稔氏と次々に在学中の思い出を交えながら一人づつ紹介、和やかなムードに。

再び舞台に戻り、三橋美智也、三波春夫、舟木一夫と物まねは名人芸の域に達し、さらに「寅さん音頭」。ここでオフレコということで、山城新吾、藤山寛美との裏話。だれでも3人は似ているので物まねを試みて下さいと言いながら、個性ある政治家の大平正芳、田中角栄元総理の物まねで会場は笑いの渦に包まれつつ、最終ステージへ。「色紙には、『笑う門には福来る』と書き、『いつも寅さんあっての私です』と言い聞かせています」としみじみ語る姿に場内静まり返る。まもなく会場からアンコールの大合唱がわき起こり、「寅さんもてもて音頭」で場内一周して1時間の公演はお開きとなりました。

「東高あっての私です」と謙虚に言えるかと自問自答しながら、終了後近くのスナックに東6期の人たちと原一平さんが来るというので取材させていただくことにしました。化粧を落とした顔はやや皺が深く精悍な表情はいかにも浅草の芸人らしく、渥美清がその教養、生き方、才能を見込んだだけある人物とすぐ分かり、いろいろお話を伺いながら記念写真に納まりました(写真)。楽しい時間をありがとうございました。日下部 衛氏と東高6期の友情に乾杯!

尚、取材後原稿と写真を原一平さんに届ける予定だったのですが、遅れてしまい申し訳ありませんでした。

4.街角で見かける突こつ会の人々
札幌突こつ会事務局
札幌突兀会は昭和35年に結成され、今年で44年になります。現在、突兀会を名乗る支部は函館と仙台だけで、旭川本部、東京同窓会、富良野支部、十勝支部は普通の高校と同じく旭川東高等学校同窓会と名乗っているのが現状です。突兀会への入会資格は、なんと東高で学んだだけでよいという甘い基準です。とはいえ、やはり突兀会。すごい人がキラ星のごとくいて頼もしい限りです。

今回は、札幌市内で見かける東高出身のお店を紹介しましょう。札幌といえば、ラーメン。なんと味噌ラーメンを考案したのは「味の三平」の大宮守人氏(旭中29期)。NHKテレビによると、旭中卒業後、満州鉄道で機関士になるも、敗戦で札幌に引き揚げ屋台を引くことに。知人の紹介でラーメンを始め、西山製麺の協力もあり遂に味噌ラーメンを誕生させ、昭和30年「暮らしの手帳」で全国に紹介され有名となったようです。野菜不足になりがちな学生のためにモヤシを加えたり、主婦が入りやすい店作りを考えたり、お世話になった同業者にご恩返しの意味で味噌ラーメンの作り方を無料で教えたりと、その人柄、生き方を称えておられました。故人となった今も後継者が大丸藤井ビルで営業しています。ラーメン横丁の「特一富屋」では、小坂 喬氏(東15期)が蜂屋風の昔の旭川の味を提供。

煮干を使った豚骨スープの香りを楽しみながら、過ぎ去りし高校生活を思い出す人も多いのでは。因みにお兄さんは母校で永らく英語の教諭をされた小坂先生です。テレビ塔に足を延ばすと紀伊国屋書店地下に佐藤茂美氏(東15期)が経営するそば・うどん専門店「たぬき」があります。本を片手に、落ち着いた雰囲気でそばをすするのも良いのでは。

JRタワーの大丸デパート婦人服売り場に最近オープンしたのが、小野昌一氏(東21期)が率いるジュエリーサロン「翔」。今後の健闘が期待されます。市内から離れますが北区屯田では、居酒屋「かの屋」が盛業中で鹿野智之氏(東21期)が店長で頑張っています。。お兄さんはHBCビタミンテレビのレギュラーで活躍中とのこと。異色な処では、薄野で多くの貸しビルを所有する「桂和商事」社長室に勤務する山下 豊氏(東10期)で、すすきのの火を消すなと日夜奮闘中です。

私たちの身近で見かけるコンビニエのひとつに「セイコーマート」がありますが、ご存知のように西尾長光氏(旭中39期)がオーナーです。北の誉酒造の役員でもあり、札幌商工会議所会頭を務められさらに突こつ会会長経験者です。ビール業界では、朝日麦酒役員の上原弘幸氏(東6期)。「スーパードライ」の発案者として今もご活躍中で、突こつ会ゴルフ部会長でもあります。毎日の食卓に上る納豆、豆腐。ここでは突こつ会会計監査の佐々木徳明氏(東9期)が経営する「オシギリ食品」が有名で、先日は地元札幌近郊で栽培された大豆を原料にした〈札幌納豆〉を製造すると発表、市内のスーパーで広く取り扱われています。また、大きな看板のドラッグストアー「ツルハ」が目に付きますが、ここの会長は鶴羽 肇氏(東1期)であることも周知のことと思われます。

皆さんも街に出かける機会が多いと思われますが、突兀会の人々(1)を読んで思い出してくだされば幸いです。次回もお楽しみに。(尚、突兀会の表記ですが、正式には突こつ会を使用、内部的な言い回しでは突兀会と致しました。)

5.温泉に行こう 「温泉の定義と温泉入浴の影響」
北海道大学医学部助教授 大塚良則(東高23期)

6.春の奇跡! -第35回全国高等学校選抜バレーボール大会出場-
会報編集部

7.素晴らしきプロ野球道の勇者たち
野球少年 横内隆志(東高23期)

8.歌い継がれる校歌 旧旭中-喜多方高校
教頭 柳沢啓一(昭和61年4月~63年3月)

9.平成15年度事業報告

10.平成15年度会計報告

11.おくやみ

12.当番期より(編集後記)

     

平成15年発行 会報第23号

<第23号の内容>

1.あいさつ
「厳しい環境を乗り切る突こつ魂」
札幌突こつ会会長 木幡 敏也(東高9期)
「100周年事業の現況報告」
旭川東高等学校同窓会会長 仲山 昭義(東高10期)
「故郷を離れて」
旭川東高等学校校長 櫛井 征四郎
2.各期短信
「思うままに」
田中 力蔵(東高5期)
「五十歳の絆」
板倉 正大(東高22期)
3.平成14年度事業報告
4.平成14年度会計報告
5.おくやみ
6.当番期より(編集後記)